脳内アナフィラキシーショック
そういえば、この病院に来るのは刑事になってから初めてで、前に来た時は、警察に入ってすぐの研修期間だった。あの時は確か、研修中のちょっとした不注意からの軽傷からだった
あの時は、
「いやあ、久しぶりだね、警察に入ったんだって?」
と言われて、
「ええ、そうです。まだ研修期間中なんですが、ちょっとした不注意で面目もないです」
というと、
「いや、何、君が来ることは分かっていたよ」
というではないか?
「えっ、そうなんですか?」
というと、先生は一瞬、しまったという顔をしたが、すぐに気を取り直して、
「虫の知らせのようなものだよ」
というのだった。
今まで現実主義者だと思っていた先生に、初めて違和感を感じた時だったので、よく覚えている。
「先生は今回も虫の知らせがありましたか?」
と皮肉交じりで言ったが、一瞬ドキッとした様子を見ることができたが、
「ああ、あったよ」
という返事を、あたかも用意していたかのように感じたことで、やはり、以前の虫の知らせも本当だったのだと感じた。
「実は。今日来たのはですね……」
と言って、さっき自分が死体の第一発見者となり、その時アンモニアの臭いを感じることで意識を失ったことを話した。
すると先生は、
「なるほど、それで、過去にハチに刺された時のことを思い出したんだね? 確かにアンモニアはハチに刺された時の応急処置に使うものだからね。それにしても、それだけのことで私のところまで来たのかね? 意識はすぐに戻ったんだろう?」
と言われて、ここに来ることを強く推したのが門倉刑事であるということをいうと、先生は少し考えていたが、急に微笑んで、
「なるほど、門倉君だったら確かにそういうかも知れないね。彼は、結構人間の中にあるトラウマであったり、PTSDつまりは心的外傷後ストレス障害のようなことにはかなり気を遣っておられるので、君を見てそのことを感じたんだろうね。ところで、そのアンモニアの臭いというのは、最初にいきなりアンモニアだと思ったのかい?」
と言われて、
――何を不思議なことをいうんだろう?
と感じたが。
「いいえ、最初は何か分かりませんでした。まずは酢ではないかと思ったけど、何か違うし、次に感じたのはホルマリンのような臭いで、それも何か違うと思ったんです。そしてアンモニアだと感じた瞬間、一気に意識が薄れていったんですよ」
というと、
「なるほど、その時に誰かが君に対して何も言わなかったかい?」
と訊かれて。
「辰巳刑事が、大丈夫かと言ってくれていたのを意識が遠のいていく中で覚えていたんです。でも、その次の瞬間、また声が聞こえ始めて、今度はそれで意識が戻ったんです」
というと、
「ということは、君の中では意識を失っていた瞬間がなかったということだね。ふむふむ、なるほど」
と先生は一人納得していた。
「どういうことですか?」
と聞かれた先生は、
「実は今の段階でコメントできることはないんだけど。高杉君が感じたその思い、間違いではないんだよ。自分がおかしくなったとでも思っているとすれば、それは違う。それだけは断言して言えると思うんだ。とりあえずは、少し精密検査をしてみようと思うんだが、大丈夫かな?」
と言われて、
「時間的にはどれくらい?」
「検査のための準備も含めて、二、三日は必要だ。君さえよければ、門倉刑事には私から話をしておこう。この事件に感じても、君の精密検査は大いに意味のあることだからね」
と先生は言って、意味不明の笑顔を浮かべた。
安心させるつもりの笑顔だろうが、そう簡単に安心できるものではなかった。
「そういえば、君が一番最初にこの病院に来たのは、確かハチに刺された時だったかな?」
と先生は話し始めた。
「ええ、そうです。確か小学三年生の頃だったと思います。最初はハチに刺されたことで、僕も怖くなったんですが、それ以上にまわりの人がやけに心配しているのにはビックリしたんです。ハチに刺されたくらいなら、クスリを塗るだけでいいのかと思っていたら、救急車まで来て、点滴を打たれながら、病院に来たのを覚えていますよ。とにかく皆慌てていて、肝心の僕だけが落ち着いて、何が起こったのかと思いましたよ」
と言って笑うと、先生も笑いながら、
「今だからそうやって笑っていられるんだけど、あの時はそうでもなかったんだよ。何しろハチに刺されたということは分かっていたけど、君の学校の先生からは、ハチの種類が分からないということだったからね。君は本当にあの時、意識がしっかりしていたのかい? 救急車の情報を訊いた時は、既得状態だということだったんだよ。実際に君がここに運ばれてきた時は、正直意識はなかった。呼吸困難を起こしていて、何らかのアレルギー反応だと思ったんだ。そうなると、問題はそのアレルギーの正体なんだけど、どちらにしても、ショック状態い見えたので、これは危ないと思った。このまま意識がなくなれば意識が戻る可能性は低いと思ったんだ。だから、既得状態のまま、何とかその原因を見つけたかった。そのためには、時間との闘いだったんだよ」
「そんなに危なかったんですか?」
と聞くと、
「ハチの毒が頭に回ってしまえば、ショックが脳を侵食し、そのまま意識が戻らない可能性がある、下手をすれば植物状態だ。一番最悪な形だと思ったんだ」
と聞くと、さすがにゾッとした。
「でも、君の意識が戻って、君から話が聞けたとき、君は、意識を失った記憶がないと言ったんだ。今のようにね」
というのを訊いて、高杉は頷いた。
「確かに意識を失ったような記憶はあったんですけど、すぐに意識が戻ったんです。まるでうとうとしていて、そのまま眠りに就いてしまいそうになっているところを、誰かに起こされたような気分ですね。あまり気分のいいものではなかったですが、先生たちまわりの人のホッとした表情を見ると、何が起こったのか分からなかったけど、気を失っていたというのは分かった気がします」
と、高杉は言った。
「その時の状況と、今回の状況が何となく似ているような気がしたので、私は精密検査をしたいと言ったんだ。あの時も結局分からずじまい。だけど、もう一度あったとすると、以前のこともあるので、ここで解明しておかないと、また起こった時、どう対処していいか分からないだろう? 今原因を突き止めておいて、治療法があったり、発作のようなものであれば、その特効薬を持っておくこともできるわけだ。時間との勝負ともなれば、なおさらのことだからね」
と、伊藤医師はいう。
「ただ、僕が気になったのは、自分の意識がない時間が、どこかに意識として残っているような気がするんですよ。その証拠に、子供の頃に意識がなかったと言っているまわりの話のその時の記憶が自分にはあるんですよ。その記憶が本当に正しいのかどうかは別にして、その時繋がらなかった意識を今になって結び付けようとする。そう想うと、急に、自分には予知能力でもあるんじゃないかって思うんです。まったく意識としては逆なんですけども、自分には信憑性が感じられるんですよ」
と、高杉は言った。
作品名:脳内アナフィラキシーショック 作家名:森本晃次