脳内アナフィラキシーショック
――本当に、ここに死体があることをまったく予期していなかったのかな?
と思い返すと、そう思えた。
確かに、ネコを追いかけた時点で、何か嫌な予感があったのは事実だ。今までの高杉ならそんなことはしないはずだった。それなのに、追いかけるようにしたというのは、どこか変だった。
そんなことを思い出していると、急に何かおかしな匂いが感じられた。
―ーあれ? 酢の臭いかな? それともホルマリンの臭い?
明らかに異臭を感じた。
しかし、捜査員は誰もその異臭に気づいていないようだ。
――そうだ、アンモニアだ――
と思った瞬間、意識が遠のいていくのを感じた。
そして、そのまま完全に気を失ってしまったようだ。
伊藤医師
「おい、高杉君。しっかりしろ」
という声が聞こえた。
聞き覚えのある声で、それが辰巳刑事であることは分かった。何度もその声を聴いた気がした。最初は意識が遠のいていく時、そして、今度は意識が戻る時、この間本人の意識としては、ほとんど繋がっているようにしか感じなかった。もし意識を失っているのであれば、限りなくゼロに近いとはいえ、意識を失っていた瞬間がしばらく続いていたという意識だけは存在しているはずなのだが、その時の高杉にはまったくその意識はなかったようだ。
「僕は気を失っていたんですか?」
と聞いたのは、気を失ったという意識を感じさせないほどに、二言目があっという間だったからだ。
「ああ、短い間で会ったが、完全に気を失っていたよ」
と辰巳刑事が言ったので、
「僕は何か言いましたか?」
と聞いたのは、以前にも大学時代、急に気を失ったことがあり、その時は、何かを言っていたと聞かされた。内容は分からなかったが、明らかに何かを言っていたという。
その時は、気を失ったという意識はあった。気を失って意識が戻るまでの間、何か別の時間が存在したという意識があったからだ。しかし、今回そんな意識はなかった。だから前の時とは違うと思ったのだが、どう違うのか、前との比較の意味で、気を失った時に何を言ったのかを確かめたかったのだ。
「何やら、ハチに刺されたから、どうのというような感じだったような気がするんだけどね」
と辰巳刑事は言った。
「ハチ? ですか?」
と驚いた高杉を見て、まったく驚きの様子を見せない辰巳刑事は、
「ああ、そう言ったよ。君は最近、ハチに刺されたりしたのかね?」
と言われて、
「いいえ、子供の頃に刺された経験があるだけなんですが」
というと、
「じゃあ、この雑木林でその時のことを思い出したんじゃないか?」
「ええ、そうかも知れません。ただ……」
と言いかけていうのをやめた高杉だったが、
「ただとは、どういう意味だね?」
と辰巳刑事に訊かれて、
「気絶する少し前に、一瞬息苦しさを感じて。その時に異臭を感じたんです。それがアンモニアの臭いだったんですよ」
というのだ。
「アンモニアというと、ハチに刺された時の特効薬のようなものじゃないか。その匂いを感じた時、子供の頃の記憶がよみがえってきたんじゃないか? でもおかしいな。私にはその時、そんなアンモニアの臭いなんかしなかったんだけどな」
と辰巳刑事がいうと、
「僕は学生時代にも気絶したことがあって、あの時も何か臭いを感じた気がしたんですが、その匂いを理解する前に、息苦しさから一気に気を失ったんです。目が覚めると、その時、何か臭いを感じて気を失ったということをすっかり忘れてしまっていました。でも、今ここでもう一度気を失うと、あの時の記憶までよみがえってくるようで、実におかしな感覚なんですよ」
と高杉は言った。
「それは、何かの暗示があるのかも知れないね。ハチに刺されたことがトラウマになっているとか」
と言ったのは、門倉刑事だった。
門倉刑事は、K警察署の誇る自慢の刑事で、まもなく警部補に昇進するという話にもなっていたほど優秀で、歴代の新人刑事の憧れの的だという。
類に漏れずに高杉も門倉刑事を尊敬していたが、自分の尊敬するという視線は、今までの先輩たちとは違っているように思えた。どこがどう違っているのか自分でもハッキリとしているわけではなかったが、漠然とそう思うのだった。
かづ蔵刑事にそう言われて、
「ハチに刺された記憶からアンモニアの臭いを感じたのか、それともアンモニアの臭いを感じたから、ハチに刺されたことを思い出したのか、どっちなのかって思うんですよ」
と高杉刑事がいうと、
「君にはウスウス感じていることがあるんじゃないかい?」
と見透かしたように門倉刑事が言った。
さすがに、尊敬に値する刑事だけのことはある。
「私は今回、気を失った時、その期間を意識できなかったんです。前の時は明らかに気を失っているという自覚があったんですが。今回はなかった。でも、あの時は臭いが分からなかったんです、アンモニアだったのではと思ったのは、今回アンモニアを感じたからであって、ひょっとするとその二つの意識が重なって目が覚める時、気を失った瞬間がなくなってしまったのではないかと思ったんです」
と高杉刑事がそういうと、
[私にはそんなアンモニアの臭いを感じることはなかったが、辰巳刑事はどうだい?」
と訊かれた辰巳刑事も、
「いいえ、私もそんな感覚は皆無でした」
というではないか?
それを訊いて、頭をひねりながら考え込んでいると、
「別に私は高杉君がウソを言っているとは思っていないんだ。むしろ、本当に高杉君にしか感じることのできない何かがこの空間に溢れているのではないかと思うんだ。そういう意味で、その正体が分からないだけに、ここは、高杉君には一刻も早く離れてもらって、このまま病院に行ってもらいたいんだ。医者に話をして、その状況を報告してもらいたい」
というではないか。
それには辰巳刑事も賛成で、現場を見る限り、第一発見者として高杉刑事に何かを訊くということはもうないような気がした。門倉刑事のいうように、一刻も早く医者の話を訊いてきてもらいたいと思ったのだ。
「どこかかかりつけの医者でもいるのかい?」
と言われて、
「ええ、K大学病院の伊藤先生ですね」
というと、
「伊藤先生は私も知っているが、なかなかの先生だ。よろしくお伝えください」
と門倉刑事に言われて、さっそくK大学病院に向かうことにした。
まずは、病院の方に連絡を取ると、ちょうど今日は病院にいたようで、
「とにかく、来てください」
ということで。急いで病院に向かった。
伊藤先生は子供の頃にハチに刺された時、話をしてくれた先生だった。今までに何度も先生の世話になってきたが、またハチのことで世話になることになるとは思ってもいなかった。
しかも、ハチのこととはおえ、本当に刺されたことでいくわけではないところが、少し違ったところだった。
もっとも、もう一度刺されていくようであれば、その時は救急車で運ばれ、生死の境をさまよっていたかも知れない。それを思うと、想像するだけで、ゾッとするような恐怖を感じるのであった。
「先生、お久しぶりです」
と言って、まずは、久しぶりの再会に顔が緩んだ高杉だった。
作品名:脳内アナフィラキシーショック 作家名:森本晃次