尊厳死の意味
「犯罪者を作ってしまった」
ということになるのかも知れない。
もっとも、これは誠也の勝手な思い込みであるが、もしそうだったとすれば、これ以上情けなく、悔しい思いもないだろう。
それからお生活は質素に済ますしかなく、それも父親の極端な性格がもたらしたことになるのかも知れない。
誠也は、そんな父親とは、もう一緒に暮らしていく気にはならなかった。父親を一人で放っておくというのは、息子としては、ひどい仕打ちなのかも知れないが、それまでに受けた仕打ちと、さらに、最近の借金の後始末などを考えれば、一緒にいるということは自殺行為に思えて仕方がなかったのだ。
そんなことがあってから、しばらく音信不通になっていたのだが、風のウワサで、
「お父さんが入院している」
という話を訊いた。
それを教えてくれたのは、親戚の人で、どうやら、心臓があまりよくないということのようだ。
入院はしばらく続くとのことのようで、身の回りの世話は、おばさんがしてくれていたということだが、そのおばさんというのも、父の妹に当たる人で、
「私も自分のうちのことがあるからね」
と言っていたが、いとこにあたる男の子が今年大学受験で、それはそれで大変なようだ。
もっとも、息子の方は、
「一人の方が気が楽」
と言っているようだが、母親としては、いつまでも父に構っていられないというところであろう。
仕方がないので、誠也がしばらく面倒見るしかないかと思っていたが、不幸中の幸いか、それとも、今までのおばさんの献身さが実ったのか、比較的早く回復してきた。
定期的な通院は必要だが、入院の必要はないところまで回復していた。
しかし、余談が許されるわけではなく、先生からは、
「いつでも入院ができるくらいの用意だけはしておいた方がいいかも知れませんね」
ということだった。
先生の言うことは半分は当たっていた。
定期的通院をするようになったから、一年後には、
「もう一度、入院が必要ですね」
ということで、入院することになった。
今回は一か月ほどと期間は大体決まっていたので、以前のような緊急入院ではなかったので、少しは気が楽だったが、今回は、おばさんが来てくれて、だいぶ助かっていた。
「いつも、すみません」
というと、
「いいのよ。うちの息子もおかげで大学生になれたし、もう気を遣うこともないからね、それに、ちょうど今、パートにも出ていなかったので、ちょうどいい時期でもあったのよ」
と言ってくれてはいるが、どこまでが本心なのだろうかと想うと、考えさせられてしまう。
さすがに病院に長くいると、いろいろな人と仲良くなったようで、今までの父だとあれほど気難しかった人が、病院内ではいきいきとしている。
「あれが本当に自分の知っている父親なんだろうか?」
と感じたほどだ。
すっかり丸くなった父親を見ていると、
「あれが父親の本性なのかも知れない」
と思い、却って憤りを覚えるくらいだった。
「だとしたら、子供の頃の自分に対してのあの態度は一体何だったんだ?」
と、張っていた虚勢の矛先が家族に向いていたのではないかと想うと、腹が立ってくるのだった。
だが、そのことを母親は分かっていたのではないかと想うと、今度は母親にまで苛立ちを覚えた。
死んでしまった人を悪く言いたくはないが、分かっていれば、ここまで両親を憎むことはなかったはずであろう。
母親が死んでから、自分が母親も父親同様に憎んでいたのを感じた。
死んでから気付いたので、父親同様なのであって、もし生鮮に気付いていれば、父親よりも母親の方が憎かったのではないだろうか。
父親は自分の感情を表に出して、その勢いで家族に接してきた。しかし、母親はその父親の威厳に頼る形で、無言のプレッシャーを息子に向けていたのだ。
父親の威厳が大きすぎたので、母親は目立たなかったが、本来父親が暴君であれば、母親は息子の味方をするものだろうと考えるのは、勝手な思い込みであろうが。
ただ、実際にその思い込みは、父親の威厳によって打ち消されたと思っていたが、どうも母親は自分の味方をしているわけではなく、自分も父親の威厳に押されて、息子を嗜める役だったのではないかと思えた。
それは、今から思えば卑怯であり、息子に対して自分の意見を示さないということで、父親の影武者であるかのようにさえ感じられた。
父親にとって、母親は操りやすい人だという意識はなかったような気がする。どちらかというと、それぞれがけん制し合っていた中であり、家族みんなで、それぞれに余計な気を遣っていたのだ。それがおかしな空気を家庭内に充満し、早く家を出たいと思っていた時期もあったが、そのうちに母親がいきなり死んでしまったことで、そのタイミングを逸してしまった。父親が豹変したというのもその理由の一つだったかも知れない。
入院した父親を見舞っているうちに、誠也は一人の男性と知り合った。その人は父とも話をすると言っていたが、最初はまさか自分が父の息子であるとは思っていなかったという。
「まさか、親子揃って友達になれるとは、何か因縁でもあるのかな?」
と言って笑っていたその人は、名前を釜石譲二と言った。
譲二さんは年齢的には四十代後半くらいであろうか。会社だったら。課長クラスになるのかな? と感じたが、彼は会社や仕事の話を一切しない。どちらかというと趣味の話をする方で、
「退院したら、趣味の絵を描きに、どこか旅行にでも行きたいんだけどね」
と言っていた。
「私が描く絵は、風景画が多くてね、よく山の中の湖だったり、草原に行くのが好きで、遠くを見ながら油絵を描くのが壮大な気分になって、なかなかなものなんだよ」
と言っていた。
絵心はあまりない誠也だったが、譲二の描いた絵をいうのを何枚か見せてもらったが、それはそれでいいものだった。
「まるで昭和の純喫茶に飾ってあるような風景画だな」
と思ったが、口に出していうことはなかった。
最近ではあまり見かけなくなった昭和を思わせる喫茶店、木造の柱に、白壁のイメージが強く、これは大学の近くにあったクラシック喫茶だったが、奥の音響ルームには、いまだにレコードプレーヤーに、昔のレコードが飾ってあり、実際に掛けることも可能だった。
レコードの針を落とす時の音など、ここで初めて聞いたくらいで、そういえば、昔の音楽のイントロ部分に、わざわざレコードの針を落とす場面を引用している作品があったのを思い出させた。
その曲が流行ったのはすでにレコードなどなくて、CD全盛の頃だっただろうか。今ではすでにネット配信が主流ということもあり、CDショップもかなり減ってきているので、街並みもかなり変わってきていることは想像できた。
昔であれば、CDショップと本屋は商店街には決して欠かせない必須な店だったはずなのに、今ではほとんど見ることができなくなってしまっていた。それだけに、いまだに残っている昭和の匂いを感じさせる喫茶店は、マスターの並々ならぬ思い入れがあってのことであろう。