尊厳死の意味
いや、血の繋がりがあるからこそ、息子の考え方や行動パターンが分かる。ひょっとすると、中学の時に皆が泊ると言った時に、凶行に反対したのは、息子が、
「皆が泊ると言えば、親は逆らえない」
という考えを見透かしていて、そこを問題視したのではないだろうか?
もし、自分に息子ができたとして、息子がまったく同じことをすれば、たぶん、あの時に自分が思ったことを思い出し、自分と照らし合わせて考えることだろう。
そうなると、たぶん、自分も子供が泊ってくると言っても、許さないだろう。少しは許してあげようという気持ちがあっても、
「親なら、子供がいうことに賛成してくれるはず」
というまるで当たり前だという意識が感じ取れてしまうと、もう後には引けない気分になって。断固として反対することだろう。
それを思うと、やはり自分と父親は血の繋がりがあるものであり、立場が変われば考え方も変わるということを思い知ったような気がした。
あの頃の誠也は、
「親にだって、自分と同じ中学時代があったはずで、その時代を思い起こせば、こんな屈辱的な感情を息子にさせるはずはない」
と思ったものだった。
しかし、自分が大人になってみると、今度は逆に感じるのだ。
「嫌になったから、あの時の父親の気持ちが分かる気がする。常識というのをあれだけ毛嫌いしていて、トラウマになっていたので、普段は絶対に口にしないはずだったのに、息子に対して懸命に説教をしている時は、知らぬ間に、口から常識という言葉が溢れてきているではないか? これは一体どういうことなのだろう?」
と思うのだった。
ただ、今はまだ息子がいるわけではない。そもそも彼女だっていない状況だ。
いずれは子供ができることになるのだろうが、今感じたことは自分が親になったから分かったわけではなく、大人になり、あの時の親の自分に対して見ている感覚を考えただけであり、それは自分が子供から大人になったということの証明ではないかと思うのだった。
大人の都合と、子供の都合、その時の誠也にはどちらが強かったのだろう。まだ、子供がいるわけではないので、子供を見る目ではないのは確かだ。ただ、子供、この場合は、父親の息子が成長したという意味での子供なのだが、その子は大人の感覚を持っているので、大人としての目線で見ることができるのだ。
ということは、子供のいない大人ということで、一般的な客観的に見た大人だと言えるのではないか。これをよく考えてみると、この発想が父親のよく言っていた、
「常識」
という言葉に繋がってくるのではないかと思うのだ。
常識というのは、大人と子供ではその目線の違いから、同じものであっても、まったく見え方が違っているのではないかと思った。
子供は見上げることでかなり遠くにあるが、いずれは届くと思うのだろうが、大人になってしまって、分かると思っていた常識が、実は曖昧なものであることを悟ると、それが本当の常識なのかという発想になり、気が付けば、答えのない無限ループに突入しているかのように思えた。
父親があれだけ威厳を持っていたのは。その常識がおぼろげでハッキリとしないことなので、それをハッキリさせるために、威厳という力を借りて。力によるカモフラージュで、常識を真実に存在するものだと思い込ませ、自分でも思い込もうとしたのだろう。
そうでなければ、威厳を保つことができない。結局、ここもどれか一つでもバランスが崩れると、うまくループしてくれず、すべてが、奈落の底に落ちてしまいそうな感覚になるのだった。
ループというのは悪いことばかりではない。
自然に浮いているものは見えないループによって、三すくみのような縛られた状態で、回転しながら、堕ちることなく支え合っているかのように思えたのだ。
自分にとっての父親を 、だからと言ってそう簡単に許すことのできない思いではあった。
確かに自分が大人になったことで、あの時の父の気持ちに少し近づけた気はしたが、子供の純粋な気持ちをぶち壊してまで、子供にトラウマを背負わせる必要があるだろうか。しかも、自分は強かったかも知れないが、いくら息子だとはいえ、自分と同じだけの精神力を持っているかといえば、おっとそうは問屋が卸さない。昔であれば、一度身についた流れは、基本的に昔方続いているものであるが、今の考えは昔を踏襲しているというよりも、今の時代に沿ったものでなければいけないという考えがあるからなのか、昔の考えをむしろ、
「古臭い、カビの生えたもの」
という感覚になっているようだ。
何しろ今の時代は、昔の交通手段と比例しているのか、大八車に乗せていたものが、今では新幹線くらいのスピードの貨物列車で移動できるのであるから、世界も広がったと言えるし、そのスピードで時代も動いているとも言えるだろう。
だが、、こんな時に誠也はおかしなことを考えた。
「相対性理論だったら、反対ではないか?」
というものである。
相対性理論というのは、スピードが光速つまり、光のスピードを超えると、同じ世界であっても、時間が進むスピードが遅くなるという考えだ。
つまり、ロケットに乗って宇宙に飛び出し、二年間ほど光速を飛び越えてロケットの中で過ごせば、普通のづぴーどで生活をしている人の、数百年分にあたるというのだ。
自分の知っている人たちがすべて死滅していて。自分だけがまったく知らない世界に降り立つことになる。
おとぎ話にある浦島太郎のお話の原点ではないかと言われていることである。
そんな話を今から数百年も前に、誰が書いたというのか、当てずっぽうにしても、恐ろしい発想の一致だと言えるのではないだろうか。
しかも、浦島太郎の話では、七百五十年後の世界だったという。それも相対性理論の発想からすれば、かなりの近似値だというではないか。最初のこの話を見た時、それを読んだ人はどんな気持ちになったんだろう。
「そんなバカな」
と思ったか、ただの夢だと思ったか。その通りであれば、すごいことだと思った人もいたかも知れない。
父親がそんなことを考えるほど知的であったとは思えないが。自分の親であれば、十分にありえることだと思った。
子供の頃の友達の中には、
「週末になると、いつも親が百貨店に出かけるんだけd、子供も皆強制的に連れて行かれるんだ」
と言って嘆いたつもりだったが、それを訊いた友達は、
「いいよな。俺なんか、お父さん休みの日も仕事だったり接待だったりで、ほとんど家にいないので、どこも連れて行ってくれないんだ」
というのを訊いて、
「お母さんは?」
と聞くと、
「お母さんは、どこにも連れて行ってくれないよ。一度連れていってくれたことがあったんだけど、迷子騒動になっちゃって大変だったんだ。それからは、母親だけで子供を引率してはいけないということになcっちゃったんだよな」
「それはお父さんの進言で?」
「うん、そうだね、お父さんの一言で決まったかな?」
「じゃあ、君の家も、お父さんの権力が強いんだね?」
と誠也がいうと、