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尊厳死の意味

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 涙はとめどもなく溢れてくる状態は、ずぶ濡れになって、街を彷徨う野良猫のごとくに感じられるくらいだったのだ。その時の思いを、皆泊るというのに自分だけが一人帰らされる惨めさを思い出させた。
「あの時と違って、今回は自分が何か悪いことをしたわけではない」
 という思いがあった。
 小学生時代だって、筆箱を学校に忘れたというだけで、本来なら、
「次回は忘れないようにしなさいね」
 と言えばいいだけであろう。
 普通ならそれで済んでいるはずで、親のいう、
「常識」
 であれば、筆箱ごときを忘れてきただけで、学校まで取りに行かせるなど、常軌を逸しているのではないか。
 その日に宿題でも出ていて、今取りに帰らなければ、明日提出の宿題をすることができないという教科書を忘れてきたのであれば、学校に戻るというのも致し方ないだろう。
 それも、本人の判断で戻るかどうかを決めればいいことで、親の出る幕ではないはずだ。それを何しゃしゃり出てきて、命令をするというのか、そんな権利を親のどこに持っているというのか、これほど理不尽なことはないだろう。
 これが自分の意志によるものであれば、屈辱であっても、悪いのは自分だとハッキリと下理由があるだけに、学校に戻ることも致し方ないと思えるのだが、理由も分からずに、一方的な命令により学校に戻らされるというのは、どう考えても常識にそぐわないと思えてならなかった。
 流した涙の意味はそこにあり、屈辱感の原点もそこだったのだ。
 中学生で一人だけ家に帰らされるのはもっとひどかった。
 皆泊るというのに、自分だけが帰るという方がよほど、非常識ではないか。友達間だけではあるが、連結感を崩しているのである、確かにこの理屈は自分だけの理屈であるが、大人の理屈とは違う子供の常識といえないだろうか。いや、これは大人にも十分にいえることで、それが常識というものではないだろうか。
 そんなことを考えながら帰っていると、一体自分が何をしているのかが分からなくなる。それは小学生の頃に筆箱を取りに行かされた時と同じで、気持ちは理不尽さと、常識とは何かということ、そして、ただただ屈辱感が入り混じって、考えがまとまらないということが一番の理由なのだろう。
 そんな思いを抱きながら家に近づいてくると、今度は、
「何を言われるんだろう?」
 という恐怖が走る。
 家に帰ってみると、雰囲気は想像通り最悪だった。誰も口を利かない。父親が出てきて、二、三発ぶん殴られる。
「お前は一体どういうつもりなんだ」
 と言われるので、
「皆泊ることになったんだから、俺だけが帰るという方が和を乱すようじゃないか」
 と言えば、
「屁理屈だ。よそ様はよそ様、お前は人に流されるんじゃなくて、自分だけでも常識を守ると思わないといけない」
 という。
「常識って何なんだよ?」
 と聞くと、
「正月で一家団欒の家に上がり込んで、せっかくの正月を台無しにしているからだ」
 というではないか。
 そもそも、自分の父親に何が言えるというのかと思った。
 小学生の頃から、押し付け感がハンパではないと思っていた誠也だったが、それは、日曜日になると、いつも父親が家族を連れて、百貨店に行っていた。
「家族団らんだから」
 という理由だったようだが、それはどうやら、父親が祖父から受けた家族サービスで、それを当たり前のことだと思っていたようだ。
 だから、子供を含めた家族は、そんな父親の週末の家族サービスと喜んでくれていると思い込んでいたのだろう。
 母親は黙ってしたがっていた。しかし、どう考えても楽しそうには見えない。ただ、当たり前のことなのでしなければいけないという思いなのか、それとも、単純に父親を怒らせてはいけないという思いなのか、両方なのだろうが、今回のように自分だけ一人帰らされる時に、
「お父さんに怒られるから」
 というのを理由にしている時点で、母親が父親を怒らせることに、人一倍の気を遣っていることは間違いないようだ。
 それこそ、理不尽だ。まるで家族に対してのDVのようなものではないか。今の時代にそんな理屈、通用するわけもない。
 そういえば、父親は家に会社の人を最近連れてきたという記憶はない。まだ幼稚園か小学一年生くらいの頃には、会社の人を連れてきていたという記憶があるが、それ以降はまったくない。
 父親のいうように、家族団らんを大切にするという理屈であれば、理由として通るのだが、それよりも、
「会社では自分が嫌われていて、誰からも相手にされていないのではないか?」
 という理屈の方がよほど当たっているような気がするのだ。
 それなのに、家族団らんなどという言葉は、ちゃんちゃらおかしいと言えるのではないだろうか。
 誠也が友達の家に泊めたくないのは、
「自分が社会から迫害を受けているのに、子供だけが皆と仲良くしているなんて許せない」
 とでも思っているとすれば、ただの子供に対しての嫉妬ではないか。
 もし、これが本当であれば、これほど情けないことはない。
「子供は親を選ぶことができるのなら、絶対にこんな親から生まれてきたりはしない。生まれてこない方がいいくらいだ」
 と思うことだろう。
 しかし、子供は生まれてくることを選べない。生まれてきてから親がどういう人なのかというのを知って、その恐ろしさに震えてみても、どうしようもないことなのだ。
 そんな理不尽さしか感じない父親に、何が威厳だというのだろう。
 きっと他の家庭からみれば、父親は威厳のある人だと思うだろう。
 近所づきあいもない。母親も子供も、父親に対して絶えずビクビクしている。昭和の時代であれば、それは、テレビのホームドラマなどで見られる父親のイメージであった。
「ちゃぶ台をひっくり返す父親のイメージ」
 それこそが、威厳のある父親のイメージだった。
 だが、今の時代ではそんなものはすっかり過去のものであり、完全なモラハラとして、コンプライアンス違反というレッテルになる。
 今ではもう見ることもできないだろうが、二十年くらい前までであれば、そういう家族もあったのではないかと思う。
 山際一家は、まさにその末期に当たり、最後の昭和一家を地で言っていたというべきであろう。
 家族というものが、そういうものなのか、そして、常識という言葉をどう解釈すればいいのか、ずっと悩んでいた。
 家族に関しては変わって言ってもいいのだろうが、よく父親が口にしていた、
「常識」
 という言葉、一体どういう意味だと思えばいいのだろうか?

             威厳の減速

 常識という言葉、さらに、社会人という言葉、大学を卒業してから、一番嫌いな言葉だった。しかも、
「社会人としての常識」
 と嫌な言葉を一緒にして使うことが多いことで、余計にこの二つの言葉が嫌で嫌で仕方がなかった。
 山際一家は、子供の頃からずっと同じ場所に住んでいるわけではなく、誠也が中学三年生になって、家族が引っ越しをした。父親が転勤になったのも一つだが、通えない距離ではなかった。それでも、引っ越しをしたのは、今まで住んでいた家が会社の社宅で、転勤を機会に、マンションに引っ越そうというのが、大きな目的だった。
作品名:尊厳死の意味 作家名:森本晃次