尊厳死の意味
これにはいくつかの解釈がある。言葉が通じなくすることが、どれほど人間にとって疑心暗鬼に陥ることで、恐怖を煽るかということである。まるで前がまったく見えない暗黒の中に放り込まれたかのように感じたのではないだろうか。何しろ、たった今まで会話ができた相手が、何を言っているのか分からない時点で、自分の意志が通用しない。言葉が通じることを当然のように思っていたのに、いきなり何を言っているのか分からない状態に陥れば、これほど怖いものはないだろう。
つまり、言葉というものがどれほど人間の信頼と絆を結んでいたかということを示していると思う。神の逆鱗で、言葉が通じなくされたと考えると、逆に言葉というものがどれほど大切なものであるかということを教えてくれているようなものだろう。
人間と神との関係、それを家族に当て嵌めて考える人もいる。
「親というのは、子供にとっては、神のようなものだ」
という考えがあるが、それが昔の古臭い考えだと思うと、苛立ちを感じさせる。
その思いがあるからなのか、神というものを都合のいい存在だと考えるのは、無理もないことなのかも知れない。
「君は父親にかなりのコンプレックスを感じているようだけど?」
と十勝氏から聞かれた。
「コンプレックス? そんなものは感じないが?」
と少しむくれたように答えた。
「そうそう、その態度がコンプレックスを感じさせるんだよ。コンプレックスというのは、自分が相手に劣っているところがあるから感じるのだが、だけどコンプレックスを感じ続けることができるということは、自分の中に、相手には負けない何かがあるということを自覚していないとできないことだとも思う。だから、君もそんなに怒りを感じる必要はないと思うぞ」
と十勝氏は言った。
「しかも。そのコンプレックスというのは、劣る部分と勝っていると思っている部分が表裏であって、結構違うものに感じるけど、実はすぐ裏に潜んでいたりするものなんだよ」
と一瞬考えている誠也を抑えて、十勝氏は続けた。
「それは、短所と長所は紙一重と言われるけど、それと同じような発想なのかな? 僕は長所と短所を表裏の関係だと思っているので今の話を訊くと、コンプレックスの原因は、長所と短所を短所の方から感じた時に生まれてくる発想なのではないのかな?」
というと、それを訊いた十勝氏は、
「そうなんだよ。君がコンプレックスを親に感じるということは、長所と短所を分かってもらいたいという無言の訴えなのではないかと思うんだ。つまりは、君は自己主張が高く、特に家族に対して、分かってもらえることを前提に考えているのではないか? それもありだとは思うのだが、強すぎるのはどうかと思うぞ。過ぎたるは及ばざるがごとしというではないか」
と、いう意見であった、
もし、この話は自分でなければ分からないだろう。
もし、他の人では分からないというのは、理由は微妙に違っているようだが、お互いに親に対して苛立ちを持っている人間だからである、
「類は友を呼ぶ」
というが、まさにその通りであろう。
そんなことを考えていると、
「俺は真剣、親を殺そうと思ったことがあったんだ」
というではないか。
「それはどういう時なんだい?」
と誠也が訊くと、
「それが、今から思うと、何でそんな大したことのないどうでもいいような理由で殺そうなんて思ったのかと思ったんだよね」
「というと?」
「要するに、どうでもいい時の方が、急に怒りがこみあげてくることがあるので、よく親を殺した子供が、放心状態になって、まるで自分がやったことではない他人事のような顔になっているというのも、分かる気がするんだ。意外と行動に出るという時は、衝動的なことが多いのではないかと思うんだよ」
と十勝氏は言った。
「きっと、いろいろ計画し、考えている時は時間の経過とともに、感情が和らいでいって、実際に手を下すことの恐ろしさを自覚できるようになるんじゃないんでしょうか?」
と誠也がいうと、
「それは言えると思うね。そういう意味では殺人などの凶悪犯罪の中で衝動的な犯罪というのは、後になって犯人がその時のことを思い出せないというけど、それも無理もないことだと思うんだ。本人に殺意があったのかどうかも定かではないほどで、だから、逆に立ちが悪いと思うんだ。何しろ殺意がないと認定されると、情状酌量されるわけでしょう? それって、被害者側からすれば、溜まったものではないですからね」
と、十勝氏は言ったが、まさにその通りだと、含みを持って頷いて見せた。
「でも、十勝さんは結局、殺さなかったんですよね? それは思いとどまったということなんですか?」
と、誠也が訊くと、
「思いとどまったという言い方とは少し違っているような気がするな。思いとどまっているわけではなく、途中で、本当の怒りがどこなのか分からなくなったんだよ」
「何かきっかけがあったんですかね?」
「ああ、きっかけはあった。それは、自分の怒りと、殺してしまった時のリアルな感情を比較しようと思って、そのどちらをも思い出そうとして、それができなかった時に、感じたのが、親を殺したとしても、そこに何の意義があるのかと感じたのがきっかけではなかったかな?」
と言った。
「じゃあ、これが尊厳死だとすると、どうしますか?」
と訊かれて。
「やるわけはないさ。嫌いな人間のために、なんで自分がリスクを負わなければいけないんだ?」
と十勝は言ったが、そのトーンは明らかに低かった。
「だけど、実際にその場に居合わせたら……」
と小さな声で呟いた。
「理屈はどうであれ、実際に目の前で苦しんでいる人を見ると、放ってはおけなくなるだろうと思うんだ。それは自分に置き換えて考えるからであって、自分がこの人だったらどう思うだろう? と感じるからであって、苦しみから救ってほしいと思うのが分かれば、何とかしたいと思うかも知れないな。とにかく、その場面になってみなければ、何とも言えない」
と、十勝氏は言った。
「十勝さんも、ずっと入退院を繰り返してきているので、苦しんでいる人を少なからず見てきているんでしょう? それを思うと、身につまされる思いですよ」
と誠也がいうと、十勝氏は少し考えながら、
「これはいくら他人のそういう悲劇的な場面を見たとしても、自分の本心が分かるわけではない。血の繋がりを真剣に信じているわけではないが、この場合は血の繋がりのある人でないと感じることのできないものではないかと思う。本当に感じることができるのは、親ではないかと、悔しいがそう思うんだ」
と、苦み走った顔で、少し興奮気味にいうのであった。
「誠也君は、父親を殺したいと思ったことはあるかね?」
と訊かれて、
「ええ、ありますよ。でも、すぐにどうしてそう思ったのかということを考えようと思った瞬間に、そんなことを考えていたことがまるでウソだったように思うんです。そして、考えたきっかけを考えるのって、いつも一番最初なんです。だから、意識を感じる前に収束してしまう感覚に、まるで最初から何も感じていないかのように思った時、急に懐かしい感情に陥るんです」