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尊厳死の意味

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「誠也君は、後悔をしたくないから、僕が先に考えをまとめてから行動だと思っているわけだね?」
 というので、
「本音はそこじゃないかと思うんです。だけど、それを悪いことだと言っているわけではありません。それが当然のことであり、その考えがなければ人間は簡単に行動に移る時に余計なことを考えすぎて動けなくなる。人間という動物は、無限の可能性の中から、無難な答えを見つけ出すことに関しては、驚異的な能力を持っていると思うんですよ。どんな動物にもできない。そしてこれから開発されるであろう電子頭脳であったり、ロボットなどには不可能なことではないかと思うんですよ」
 と、誠也は言った。
「じゃあ、どうして、誠也君は僕と意見が違うのかな?」
 と十勝氏に訊かれて、
「人間というのも、一つの動物の一種だという考え方です。動物というのは、その存在において、他の動物にはない特殊なものを、必ず一つは持っているものだろう? 人間に関しては。それが頭脳であり、考えることであり、判断することだと思うんだ。でも人間には他の動物のように本能が存在する。目立たないが、他の動物と同じくらいの力があると思っているんだ。だから、まず先に行動してから考えたとしても、それほど大きな失敗をしないものだろう? もちろん、失敗することもあるが、その場合は、自分の本能に対して、少なからずの疑問を抱いているからでhないかと思うんだよね。本当にできるんだろうか? と少しでも思うと、失敗する可能性はどんどん膨れ上がって、本能でも補えないのではないかという考えだね」
 と、誠也は言った。
「なるほど、今の話からすれば、確かに本能が考えよりも究極という考えは分かる気がする。でも、人間の他の動物にはない特化した能力と本能を比較するというのは、何か違う気がするんだ。この比較はあまり意味がないというか、平行線を描くようで、結論の出ない、数学でいう『解なし』なのではないかと思うんですよ」
 と、十勝氏は言った。
 だが、一つ言えることは、人間が思っているほど、本当に人間は、他のいかなる動物よりも高等な動物なのだろうかということである。知らないだけで、他にも人間よりも高等な動物はいるかも知れない。それが神というものではないかと思うのだが、誠也はその考えにも異論があった。
「神というものは、人間には見えないが、人間よりも高等な動物として君臨しているものではないか?」
 という考えであるが、誠也はそうではなかった。
「神というのも、しょせんは人間が創造したものであり、自分たちが同じ人間をコントロールする一種のプロパガンダとして、神という存在を作り上げ、そこに皆を誘導しようという考えではないか」
 ということであった。
 その証拠に、
「どうして、神がいるのに、戦争がなくならないんだ? しかも、今までに起こった戦争の原因として、宗教戦争がそのほとんどであることが証明しているではないか?」
 という意見であり、さらに、
「ギリシャ神話などの神話と呼ばれるものでは、存在する神は、人間よりも人間臭いところがある。つまり、人間のように嫉妬深く、自分お都合ばかりしか考えない存在」
 というイメージが中学時代に習った歴史で、最初からそう感じていた。
 さらに、聖書などの書物では、何度人間が粛清されているだろう。
「ノアの箱舟」
 は、一度人間を含めた世の中の生物をつがいを残して、そのほとんどを洪水によって死滅させるという発想である。
 いわゆる「浄化」というものであり、この発想は聖書だけではなく、他の宗教の聖典にはほとんどと言っても書かれている内容である。
 世界の動物を死滅させるなどという発想が、人間が慕っていて、戦争まで起こす原因となる神がそんなことをするのである。普通に平和な中で過ごしている人たちにとっては、考えられることではないだろう。
 そう考えると、人間の奥にある欲望が作り出したものが、神だと言えるのではないだろうか。
 自分たちの欲望を都合よく説明するという意味で、最初に神という架空の崇める象徴を作り出したうえで、自分の行動が非難されるようなものであれば、都合よく自分たちが作った神に責任をおっかぶせようという考えだとすれば、これこそ、
「人間臭い」
 と言えるだろう。
 神というのは、しょせんは人間が作り出した虚像であり、絶対に存在しないものだと確信していなければ出てこない発想ではないだろうか。

              常識的行動

「安楽死の問題は、生殺与奪の問題に絡んでくるので、倫理観がそのまま善悪の問題に関わってくる。それを思うと、本当であれば、
「神の領域」
 ということになるのだろうが、前述のようなことを考えてしまうと、神の存在を疑問に思っても無理もないことではないだろうか。
「ノアの箱舟や、ソドムの村の話など、明らかに生殺与奪の権利というよりも、創造主としての責任」
 という発想ではないだろうか。
 権利というよりも、責任ということにしてしまうと、生殺与奪を神であれば、支配できるものだという信憑性を持つことができるだろう。責任というのは、そういう意味では都合のいい言葉としても使うことができる。聖書などの聖典が、神をも支配できる力を持った人間がいるという発想を抱かせるのだ。
「人間が神によって作られたのであれば、神はさらに神をも超えた人間によって創造されたものだ」
 という考え方だ。
 ということは、
「神を後ろ盾にして、生殺与奪の権利を与えられたということにすれば、尊厳死も言い訳がつくのではないか?」
 と思ったが、おっとどっこい、そうは問屋が許さない。
 ほとんどの宗教では、人間が人間の命を奪うことを戒めている。モーゼの提唱した、
「十戒」
 というものの中に、
「人を殺めるなかれ」
 という戒めがある。
 そして、キリスト教では、自殺を許していない。つまり、自分の命であっても、自由にはできないという発想である。
 そういう意味では神というものは、人間社会において、融通を利かせていない。人間にとって、神というのは、どういう存在なのだろうか? 本当に存在するとすれば、人間が勝手に想像していることをどのように感じているだろう。
 ただ、聖書の世界の中に、
「バベルの塔」
 の話が出てくると、この話は、権力をまわりに認めさせたいという欲を持った国王が、人海戦術で、
「世界で一番高い塔」
 を作って、自分の権勢をひけらかそうという意思を持って、塔を作ったのだが、もう一つの意識として、
「神に近づく」
 という意識があったようだ。
 そこで、塔がある程度完成した時、空に向かって弓矢を撃った。それを見ていた神が、
「人間事気が、こざかしい」
 とばかりに、怒りから、塔を壊して、さらに、それまで共通語で話をしていた人類と、言葉が通じないようにしたことで、人類は世界に広がったという話であった。
作品名:尊厳死の意味 作家名:森本晃次