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尊厳死の意味

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「そうだ、昔の隔離病棟というのをテレビで見たことがあったような気がする」
 と、これは当時思ったことではなく。今思い出すと、感じることであった。
 ただその時は、
「こんな建物、以前にも見たことがあったような気がするな」
 と感じたのだったが、日本家屋とのギャップにどんな意味があったのか、聞くに聞けないこととして感じていたので、後になって気にするくらいだったら、
「どうして、あの時に聞いておかなかったんだろう?」
 と感じた。
 あの時に聞いていて、今すっきりできるような回答が得られたという気はしない。
 むしろ、
「何が納得できるような回答なんだろう?」
 と感じさせるほどで、大人になってから、数多くの納得できなかったことが大人になって解決されたことも数多い。
 だが、あの時、何を知りたかったのか、それは思い出せなかった。それでもあの光景は時々思い出す。
 脳裏の奥にある光景を思い出してみると、今でも、あの時、
「初めて見る光景ではないような?」
 という意識がよみがえってきて、その感覚を思い出すためと、
「何が納得できるような回答なんだろう?」
 とが、交錯しているように思えるのだ。
 今から思えば、その建物が記憶に残っているわけではなかった。建物というよりも、そのまわりの光景がどうも以前に行ったことがある光景で、その光景の中にむしろその建物がなかったことで、却って記憶に残ったのではないかと思った。
 印象に残った部分が記憶に残っているのであればいざ知らず、それ以外の記憶が何か頭の中の記憶を打ち消しているのではないかと思わせるのだった。
 だが、今回思い出したのは、まわりの景色への記憶は重複したものだが、建物に関しては初めて見たものだったのだ。だから、余計に印象としては強く残っていたのだろうが、その記憶に残り方は、まわりの風景を含めた一つのものとしての記憶なのか、建物だけが独立した記憶なのか、そこまでは分からないが、たぶん、忘れてはいけないものだという意識が残っていたのかも知れない。
 そうでなければ、こんなに何年もしてから記憶の奥から引っ張り出されるわけもない。ただ、一度しか見たことがないはずなのに、記憶の中では複数回見たと感じるのは、他の景色に既視感があるからなのか、それとも、覚えていないだけで、夢の中で何度か見たという意識があって、それが既視感を抱かせているものなのか、そのどちらかではないのかと思うのだった。
 そんな奇妙な西洋館を思い出させるまでに、日本家屋を思い出させ、そこに持っていくためにちゃぶ台を連想さえ、今は訊くこともなくなったちゃぶ台という言葉さえ懐かしく思うほど、そのどれかに、誠也は思い入れがあったのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、この間、入退院を繰り返している病院で、聞こえてきた話が気になってしまったのだ。
 その時の会話をしていたのは、一人の老人と、その息子に当たるのか、五十代くらいの男だった。
 誠也がその二人を意識したのは、その息子と思しき人が、自分が子供の頃の父親にソックリだったからである。それは顔が似ているという意味で、実際には性格はまったく違っているようで、むしろ、正反対なくらいであった。
 その男の父親は、痛々しいくらいの衰え方であった。髪の毛はすべてが真っ白であり、禿げ上がってはいないが、中途半端に残った白髪が痛々しさを醸し出していた。伸びすぎて、くせ毛になっているわけではなく、ドライヤーを使ってもどうしようのないほどの中途半端な長さを見ると、まず、髪の毛から痛々しさがこみあげてくるのだった。
 腰は完全に曲がっていて、まともに立ち上がることができないようだ。車いすに乗っていて、喫茶室に来て車いすから普通の椅子に乗りけえるのを息子が手伝っているのを見ると、ひとりではすでに何もできなくなっているのを感じ、さらに救いようのない侘しさが襲ってきたのだ。
「見るんじゃなかった」
 と思うほどの憔悴感があったが、見えてしまった以上、その二人から目が離せなくなった自分を感していた。
 老人が車いすから乗り換えたのは、その車いすが極端に低く作られているからだった。そのために椅子に腰かけなおさないと、顔がテーブルの下に来てしまい、そこでは何もできないからだった。
 その老人は、息子に抱えられ、何とか移動できたが、無言でしかもさりげなく行われている光景は、まったく力が入っていないようだった。すでに慣れ切ってしまっているのではないかと感じると、哀れさを感じさせた。それだけ、毎日のように違和感なくできるようになっているということは。果たしてこの息子は父親の介護をどれほど長く続けているというのだろうか。他人事であるが、身につまされる気がした。
――俺だったら、とっくにやめてるだろうな――
 と思った。
 一体どれだけの期間、こんなことを続けているのかと感じた時、この建物が急に寂れ方が激しくなってくるのを感じた。
 それは、まるで、これから数年後を想像しているのではないかと思ったのだ。
 その時、この二人はどうなっているというのか?
 相変わらず、今と同じ光景を示しているのではないかと思うとぞっとする。父親はどこまで疲弊してしまっているか。そして、それ以上に息子の変わりようを想像したくないと思っている自分を感じた。
――やはり、この息子に将来の自分を見ているのだろうか?
 と感じると、自分が父親の面倒を見ていることを想像できなかった。
 突き放してしまっているのを感じるが、面倒見ることは自分にとっての屈辱感を煽ることであり、そもそもそんな屈辱感を自分に植え付けたのは、父親ではないか。息子を頼れないような人間にしてしまったのは、父親の自業自得というものだ。
 しかし、放っておくわけにもいかない。面倒を見るという行為自体が嫌だというわけではなく。相手が父親だということで、子供の頃から許せないという意識を持ち、それをもベーションのように生きてきた自分にとって、手放しで父親の面倒を見るというのは、敗北感しかなかった。
 普通であれば、敗北感などあるはずはない。
 俺に面倒見てもらわなければいけないくらいに老いぼれた親に対して、これからは思う存分、これまでの分も上から目線で見れるんだ。『俺がいなければ生きていけないくせに』という思いを持つことで、積年の恨みを少しでも張らせたような気がするからだった。
 目の前の二人は、いつもの行動をとっているのだが、何か違和感があった。その違和感がどこから来るのか最初は分からなかったが、すぐに気が付いた。それは二人の間にまったく会話がなかったから。
 いつもであれば、会話がないまでも、息子が親を椅子に移しかえるその時に、
「よいしょ」
 などという掛け声のようなものが聞こえてきていたような気がしていたからだ。
 いつもなら、その声がないことにすぐに気付きそうな気がしていたのに、その日気付かなかったというのは、誠也自身まで、目の前の光景に意識が慣れてしまったということなのか?
 そんなに毎日のように見ているわけではないと思っていたが、意識していないだけで、本当は自分が思っているよりも頻繁にこの光景に遭遇していたのかも知れない。
作品名:尊厳死の意味 作家名:森本晃次