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尊厳死の意味

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 極論ではあるが、想像力の可能性という意味を小説の本質とするならば、ノンフィクションは自分にとってはなしだと思っている。
 これはあくまでも、読者に対しての話ではなく、作者としての意見である。これがもしプロの作家だったら、許されない発想かも知れない。プロになった時点で、作家の立場は、自分についてくれた出版社というスポンサーであり、個人契約ではあるが、社員に対してよりも外部なだけに、余計な厳しさがあるのだろう。
 だから、
「私はノンフィクションなんて認めないから書かない」
 と言っても。出版社の「発注」がノンフィクションであれば、それを描かなければならない。この場合は作家のプライドはあってないようなものである。
 プロ野球選手が、監督のサインに従わなかった場合に、厳罰を受けるのと変わらないだろう。昔の外人選手などで、
「俺は元メジャーリーガーで、この俺にバントを命ずるなんて」
 と、監督のサインに逆らった外人もいたようだが、今では許されることではない。
「郷に入っては郷に従え」
 つまり、一旦入った組織には逆らえないということだ。
 小説家もプロになれば誰もがそうである。自分と契約した出版社は、自分を買ってくれたのだ。買主に対して売主が逆らうことは許されない。そのことに、誠也は気付いた。
 元々、小説家になりたいとは思ったが。それほど深くは考えなかったのだが、それがなぜなのか、ピンと来ていなかったが、今なら分かる気がする。要するに、
「自分がやりたいことができなくなるのがプロならば、何もプロになる必要はない」
 と思ったのだ。
 この選択をした時点で、プロとしての覚悟がないということなのだろうが、実際にプロの世界に足を突っ込んだはいいが、覚悟も状況も考えずに才能だけで飛び込んで、結局は自分の理想と、社会の現実の狭間に落ち込んでしまって、脱落していった人がどれほどいるのだろうか。
「才能があった分、そっちの方がいい」
 という考えか、
「プロになる前に自覚できてよかった」
 というべきか、実際に小説を末永く書き続けるのはどちらなのかを考えると、おのずと答えは見えてくるような気がした。

               趣味の世界

 結局、フィクションにこだわることで、プロへの道を断念したという言い訳ができあがったわけだが、実際にプロになるという欲を捨てたことで得られた結論でもあり、そんな自分が指摘する分には、何も問題ないと思うのだが、まだ思い上がりがあるのだろうか?
 なかなか答えの出ることではないと思うが、長い歴史の中で、どこかでこれに近い結論が得られるような気がするが、そのことに自分が気付くかどうかということは、関係ない気がする。
 この問題が提起される時にはすでに自分はこの世にいないかも知れないし、生きていたとしてもまったく関係のないところで起こっていれば、気付くわけもないだろう。ニアミスくらいはあるかも知れないが。それも何とも言えない。そう思いと、小説を書くということは、あまり真剣に考えることではなく、気軽に考えるに越したことはないと思うようになった。
 さらに世の中には、プロになりたいという気持ちを利用した悪徳商法などが、いまだに存在するということから、
「いつ騙されないとも限らない」
 という気持ちを持っておかないと、気が付けばお金をだまし取られていたなどということになり、それどころか、作家デビューはおろか、大切な作品まで、ゴミと化してしまわないとも限らない。
 そう想うと、何を信じていいのか分からない世の中、一度目指した夢が見えなくなるということのショックが大きいだろう。
 お金をだまし取られたというよりも、
「あなたの本は、一定期間、書店に並びます」
 といううたい文句から、まさかとは思うがプロデビューも夢ではないという妄想を抱くのだからたちが悪い。
 本当は並んでなんかいなかったということを思い知らされたことの方がショックは大きいだろう。
 お金なら、今からその気になれば貯め治すことはできるだろうが、一旦手に入れかけていると思った夢が、実はまったくの騙しでしかなかったと思うと、ショックでしかない。
 これは、騙した相手に対しての怒りなのか、それとも、騙された自分が愚かだということで自分に対しての怒りなのか。そのどちらもであることは間違いないだろう。
 しかし、どちらの方が強いのかと言われれば、一言では言えないかも知れない。
 心に残ったショックの残像から自分のその時、有頂天になっていた気持ちを思い起こして考えるしかないに違いない。
 これはもちろん、人によって違っているであろうし、だが、自分に対しての怒りでも、相手に対しての怒りであっても、怒りを感じた時点で、自分が騙されているということが確定したことにいまさらながら気づかされるのだ。
「騙される方が悪い」
 という発想から、騙す方は、
「いかに騙すか?」
 ということを考えるのであろうから、騙すことで相手は金を設けることになる。
 つまりは、相手の目的は金儲けなのだ。
 そうなると、騙される方の気持ちなど、騙す方からすれば、ただのカモでしかない。騙した方が捕まって、騙した人に対して、
「申し訳ない」
 と、ウソなのだろうが言っているとしても、それは金銭的な詐欺に対しての謝罪の言葉であろう。
 捕まえた警察もそれくらいにしか思っていない。しかし、被害者のほとんどは、金というよりも、名誉であったり、せっかく有名になれるかも知れないという淡い期待を抱かせたという精神的な詐欺に対しての謝罪であれば分かるが、しょせん、捕まえた方も捕まった方も、表に出ている罪、つまりは、詐欺行為によって、金銭をだまし取ったということが犯罪の理由となるだけで、裁判はそちらに重きが置かれる。
 彼らが出版した本は紙くずになろうが、警察には関係はない。元々、民事不介入だからである。
 お金を払って弁護士を雇ったり、被害者の会を設立して、民事訴訟を起こしたりと、騙されたことに対しての本当の怒りはそういう形でしか訴えることができないのだ。
 そんな事件がいくつも発生し、社会問題になったのは、今から十数年前のことだった。短い間だったが、夢を見ることができたのはよかったが、最後はこれでは、本当にどうしようもない。
「きっとまた何十年が後には、形を変えての似たような事件が起こるに違いない」
 と言われている。
 そのいわゆる、
「自費出版社計」
 と呼ばれる出版社であったが、それまで、小説家になりたいと思えば、有名どころの出版社が主催する文学賞であったり、新人賞に蚊作以上を受賞するか。あとは持ち込みしかなかったのが現状である。
 もちろん、コネを使うとかがあればいいのだろうが、一般の人にはそんなものはない。だから持ち込みが主流だったが、そのほとんどは、応対ではいい顔をされても、本人が帰ったら、原稿は秒でゴミ箱の中だった。
 当時時代は、昭和が終わり、平成になってから少ししてくらいからのことだろうか。それまで昭和の象徴とまで言われた
「バブル経済」
 が崩壊したことで、世の中の生活スタイルがまったく変わってしまった。
 それまでは、
作品名:尊厳死の意味 作家名:森本晃次