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尊厳死の意味

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 監督はその場にいる役者を見て映像を作り上げようとするので、脚本とキャスティングに隔たりがあれば、いいドラマができるとも限らない。
 つまりは、ドラマの表に出てくるのは、監督の采配と、それによって生かされる俳優陣なのである。
 視聴者は、ドラマの登場人物の顔は皆分かるが、脚本家が誰なんか、まったく気にすることなく見ている。そこが作家と違い、自分の意見や意志は、ある意味二の次だと言っても過言ではない。
 そんなシナリオライターは自分には向かないとも思った。
 シナリオライターでやってみて、実際に感じたそれまでの思いとの違いは、
「オリジナルな作品か、原作があるものをシナリオに書きなおす場合の考え方」
 であった。
「原作があるものは、それを元に作れるから楽じゃないか?」
 と、素人目線で思っていたが、実際にはそうもいかない。
 下手に元があることで、例えば尺に収めなければならない時、どうしても一つのドラマに何か所か、どうしようもない馬援があることだろう。
 実際に当て嵌めるとすれば、原作の場面をいくつかカットする必要があったり、微妙にシーンを引き延ばしたりしなければいけなかったりする。
 そこが実に難しく。削ってはいけない場面であったり、余計な個所を付け加えることで、原作を微妙に変えてしまうことも考えられる。
 作家とすれば、
「この大事な場面をカットするなんてありえない」
 というかも知れない。
 そんな場面に限って普通は一番感じられることとすれば、
「その場面はラストシーンに効果を出させるための必要な部分だ」
 ということだってあるだろう、
 下手をすれば、尺のために、登場人物でも、本来ならカギになるはずの人物を存在すらなかったことにするかのような大胆なシナリオになってしまったりして、原作を読んだ人から、最大級の批判を受けることになるというのも、ありではないか。
「こんなメチャクチャなドラマになってしまうなんて」
 と、言われ、さらに放送されれば、視聴率は最悪なんてことも日常茶飯事なのかも知れない。
「映像作品と原作では、どう逆立ちしたって、原作が映像作品に勝るものを作り上げるのは、まず無理でしょうね」
 と言われるのだ。
 原作は何と言っても、想像力を元に作り上げる読者の世界。しかし、シナリオというのは、読者としてシナリオライターが読み取った内容を、今度は自分で映像作品に作り替えようとするのだ。そこにワンクッション入ることで、シナリオ化された時点で、マトリョシカ人間でいえば、二つを開けられたことになる。
 さらに、その後、演出家や監督、俳優の手によって、さらに、マトリョシカは開けられていく。
 最初は大きかった人形が、最後は親指サイズくらいになっているかも知れない。
 それがシナリオと小説の違いなのではないだろうか。
 こういった話で比較に用いる場合の対象物として、マトリョシカ人形というのは、結構役に立つものだと言えるのではないだろうか。
 そういう意味で、
「ドラマは都合よくできている」
 というのは、自分が一番分かっていたのではないか?
 分かっていて、あの時の植物人間のドラマも見ていたはずだ。
「最後をどのように収めようとするんだろう?」
 と勝手に結末を想像していたような気がした。
 だが、不思議なことであるが、誠也はドラマを見ている時、自分が以前、小説を書こうとしていたことや、脚本についても、少しだけ足を突っ込んだ経験があるということを忘れていたような気がする。
 確かに。内容を勝手に想像はしていたであろうが、それは素人がする発想と変わりないもので、発想というだけなら、ドラマをよく見ている連中の方が鋭いかも知れないと思っていたくらいだった。
 大学を卒業してから、
「小説を書くことは続けていきたい」
 と思ったが、
「もうシナリオはたくさんだ」
 と思うようになっていた。
 なぜなら、自分が小説を書き続けたいと思った時、頭の中でネックになったのが、シナリオに対しての中途半端な知識だった。その思いがあるから、小説のオリジナリティの本質に近づけない気がしていた。自分で勝手に思ったことを書けばいいのに、なぜか書ける気がしない。それは、シナリオを書いていた時の、プロデゥーサーや監督、俳優に気を遣っていた自分が、とても小さく感じられたのだが、その自分が自分の中にいて、勝手に自分を操っているかのように感じられたからだった。
 小説を書くことで。ドラマがどれほど都合よく書かれているかというのも分かった気がした。
 小説には尺もなければ、演じる人もいない。読者の中には自分の好きな俳優をイメージして読む人もいるだろうが、よほど的が外れていない限り、失敗名はない。
 なぜなら、これも映像作品と、原作の違いなのだろうが、原作はあくまでも読者の勝手な想像であり、映像作品は、こちらで制作したものを、視聴者に見てもらう。もしくは見せつけるものである。
 上から目線になってはいけない。見てもらっているという思いでいなければいけない。そうなると、見せつけられる方にはその時点でがんじがらめになってしまい、原作のような想像は不可能であった。そこが映像作品の一番難しいところである。
 以前バスの中で聴いた尊厳死の話であるが、それをいろいろと想像していくうちに、
「これは原作として小説で描いた方がいいのか、それとも、シナリオにして映像化した方がいいものなのか?」
 ということ思い知らされたような気がした。
 確かに、小説にすると、読者に感動を与えられるものにはなるかも知れないが、そこにはかなりの技量が必要になってくる。
 小説というものは、読者の想像を促すものであるだけに、想像力を掻き立てない作品は駄作だと言ってもいいのではないか。
 そうなると、自分たちのように素人であれば、相手にリアルな想像をさせるためには、それだけリアルを納得させるものが力としてなければいけないのではないだろうか。そうなると一番必要なのはリアリティであり、それはどこから来るのかというと、
「自分の経験から来るもも」
 であるのが一番である。
 そうなるとノンフィクションになってしまうが、誠也としては、
「ノンフィクションを書くくらいなら、小説なんか書かない」
 というこだわりを持っていた。
 正直、かなり偏った考えであるが、
「小説の一番の特徴は、自分の発想であり、実際にあったことを書くのは作文であり、エッセイだ」
 と思っている。
 そういう意味で、なぜノンフィクションの作品が存在するのかが分からない。エッセイとの違いは。エッセイが自分のことであり、ノンフィクションが自分のことに限らずに、実際にあったことを、物語にして描いているということであろう。
 そこには、文章力と、ちょっとした想像力は必要かも知れないが、小説の本質である、作者の言いたいことであったり、フィクションであるがゆえに無限に広がる発想というものがなくなってしまうと思うのだ。
 誠也は、それがなければ、
「小説ではなく、学校の授業の作文ではないか」
 と言いたいのだろう。
作品名:尊厳死の意味 作家名:森本晃次