尊厳死の意味
この場合は、医者の立場。家族の立場、本人の立場を考えてみる必要があるのではないだろうか。さらに家族の立場でも、家族が多ければ、その立場も微妙に変わってくるのではないだろうか。奥さんだったり、子供だったり、親だったりする場合の近親者。それ以外の兄弟、親戚、などである。
ここで血の繋がりが、どれほどの感情の距離を持っているか分からないが、ここまで来ている場合の家族というと、まわりが見るよりも、かなり距離があるのではないかと思うのだ。
本当の近親者であれば、家族としての意識からなのか、借金してでも、本人を見捨てるわけにはいかないと思うのではないか。
以前、テレビドラマで、植物人間になった子供をずっと世話をしている母親がいて、十年以上も看病を続けていたが、その間に家族はバラバラ。旦那とは離婚、子供は中学卒業後に家出同然に出て行ってしまった。
そして、何もかも失くした母親は、どういう思いで看病をしたのか、それから数年度に、何と意識が戻ったという話だった、
本当はそこで終わっていればハッピーエンドなのだろうが、物語はそこから始まるのであって、一つの目標が達成されれば、そこから先は、新たな世界が広がるのだ。そして、すでに何もかも失ってしまった親にとっては、新しく開けた世界では、かなりのマイナスからのスタートになる。さらに、子供も意識は子供のままである。普通に考えてうまくいくはずはない。
それをハッピーエンドのドランにしようとするのだから、実にドラマというのは、フィクションとはいえ、実に都合よくできるものである。
テレビを見ていて、
「あの時助けたりしなければ、さらなる悲劇を生まなかったんだ」
という思いや、
「本人のためというよりも、すべてを失って自暴自棄の状態から、引くに引けなくなった結果がこれだ」
という意見があるようだった。
だが、ほとんどの人は、植物人間が意識を取り戻した時、
「諸全ドラマで、都合よくできている」
と思ったにもかかわらず、意識を取り戻した子供と、苦労が報われた母親に感動の涙を流したはずなのだ。それなのに、そのあとをドラマにしてしまったことで、一度受けた感情がぶち壊されて、
「こんな状態から、どういう結末を見せようというんだ?」
あるいは、
「これでハッピーエンドにできるなら見せてもらいたい」
という挑戦的な思いでドラマにのめり込むことだろう。
もっとも、それが制作側の狙いで、ラストがどうであれ、視聴者の目をくぎ付けにして離さないこの状況で視聴率が上がるのだから、それでいいと思っていることであろう。ラストで、
「騙された」
と思ったとしても、ドラマとしては最後まで視聴者を釘付けにしたのだから、成功なのである。
「ドラマなんてこんなものだ」
と思えば、また次のドラマも見てくれるだろうし、本当に騙されたと思う人は、ドラマを見なくなるかも知れないが、そこまでの人は少ないのではないだろうか。
ドラマというのは、しょせん、人に感動を与えたとしても、それはその瞬間だけで、また新たなドラマが始まると、そっちに意識が行ってしまうものだ。
どんなにドラマが好きな人でも、ドラマの弱点を知っている。だから、それを踏まえたうえで見ることができるので、その人がドラマ離れすることはないのではないだろうか。
実際のドラマチックな話とドラマとではリアリティが違うのかも知れない。何しろ演じるのは役者であり、人気俳優であればあるほど、いろいろな役をやったりするので、似たようなテーマでも、作品が違えば、まったく逆のシチュエーションだったりする。
分かりやすいのは刑事もののようなドラマで、前の作品では刑事役の主人公が、次の作品では、犯人役、前の作品では犯人役が今度の作品では、刑事役として熱演することになる。
ただ、これはプロデゥーサーの作戦かも知れない。人気俳優を逆の立場にした演出をわざとすることで、ドラマを引き立てというものかも知れない。だが、その本当の主旨は、その人気俳優をいかにドラマで売らせるかということである。その俳優が本職ではなく、本職としては歌手であったり、アイドルだったりする場合には、人気を得るためということで、そんな露骨な演出が施されていることも多いだろう。
よく、
「小説とシナリオは違う」
と言われるが、まさしくその通りだ。
誠也は、大学の頃、小説を書いてみたいと思い、文芸サークルに入った。そのサークルでは小説家を目指す人、そして脚本を勉強し、シナリオライターを目指す人、そして文芸の歴史を勉強し、評論家や、大学教授を目指そうとする人などが在籍していた。
最初は大学のサークルというだけに、飲み会や合コンなどを主目的にした、ありがちのサークルの一つではないかと思っていたが、そこはどうして、結構真面目なサークルだった。
実際に作品を書き上げて、文学新人賞に応募したり、シナリオの方でもコンクールに応募したり、中には撮影現場でのADのようなアルバイトにも参加する人もいたりして、かなり本格的な活動をしていたが、誠也は、小説を書くのもシナリオを書くのも、両方をしていた。
基本的に悪いことではなかったが、やはり両方を突き詰めようというのは難しいことで、実際にやってみると、その違いに改めて思い知らされた気がしたのだった。
その違いというのは、想像以上に溝は深かった。
小説とシナリオではそもそもの目的が違うのだ。そのために、まわりの環境から違っていて、取り組む姿勢も変わってくるのだ。
小説というのは、自分独自にオリジナリティを出しながら制作していくものである。まあ、一般的にクリエイターと呼ばれる人はそういうものだと思われているだろう。
しかし、それは小説を書く人に言えることで、シナリオを書く人にはそれは言えないのだ。
シナリオというのは、一つの映像作品を動かす上での一つの駒でしかない。小説というものは一冊の本で読者に訴えかけることが可能だが、シナリオはそういうわけにはいかない。
一つの映像作品を作り上げるには、まず大きなテーマとテレビ局側の意向、さらに、一番大きな問題として、スポンサーが協賛してくれなければ、ドラマが成立しないということだ。
そこには当然最初から制約が付きまとう。
スポンサーの不利益になるようなドラマを作るわけにはいかない。例えば、分かりやすい例として、結婚式場のスポンサーがついているのに、離婚調停を主に活躍する弁護士のドラマだったり、薬品会社がスポンサードラマで、薬害の問題をテーマにするような話はできるわけはないだろう。
そういう意味の制約もあれば、ドラマには時間という尺の問題がある。三十分番組、一時間番組とあるわけなので、ちゃんと、その尺に収めながら、ちょうどその週の終わりには、翌週、
「また続きが見たい」
と、視聴者に感じさせるようにその週を終わらせる必要がある。
さらに、脚本を書いた人間が監督を務める場合もあるが、基本は違っている。したがって脚本家の意向を監督が汲んでくれるとは限らないのだ。