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尊厳死の意味

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 これを相手国家が、すでに八十年以上も前の話を持ちだしてきて、さらに被害者の数を持ってきていたりするが、どこまで事実なのか、証拠がないので、立証ができていない。それもそのはず、この話はでっち上げという話もあるのだ。
 戦争だから、民間人を含めた軍人が殺害されるというのも、無理もないことであろうが、この時に殺害された民間人というのは、実は、
「民間人に変装した兵士だ」
 という話があるのだ。
 そういうことであれば、そういう兵の存在を、戦時国際法は認めていない。民間人に化けて、ゲリラ戦を行うためだと解釈されるからだ。そして、そんな兵に対しては、捕虜としての待遇を義務付けるものではない。直接被害を受けるかも知れないからであり、まるでスパイに対しての対応と何ら変わりはないのだ。
 つまり、日本兵はそういう兵死を探し出して、処刑をしたのだ。もし民間人に化けている兵士であれば、処刑は合法であり、非難されるものではない。確かに服装は民間人なのだから、処刑を見た何も知らない市民は、
「虐殺された」
 と思うだろう。
 さらに疑問なのは、その映像が残っているということだ。
 かつての日本軍は、秘密研究所を持っていたが、そこを敗戦が決まった時から、一切の証拠隠滅を図ったという歴史上の言われていることもあるのに、虐殺映像が残っているというのおかしなことである。一番最初に隠滅すべきであろうからだ。
 それを思うと、その映像も、相手国の兵士が、自国民に対しての虐殺を表しているとも言えなくもない。
 何しろ、撤退の時、日本軍からの物資の略奪を恐れて、何と守らなければいけない時刻員を自分たちで虐殺したとも言われている。
「一体何のための戦争で、何のための兵隊なのか」
 ということを考えさせられる。
 まるで国民のためというよりも自分たちだけのためと言えるのではないだろうか。
「国民は国家に命を捧げるのが当たり前だ」
 とでもいうのであろうか。
 逆にいえば、それが戦争というものであり、戦争の本当の姿なのかも知れないと思うのだった。
 そんな時代を考えると、世界大戦など、どこに行っても逃げることはできない。しかも民族性で戦い方も、士気もまったく違っている国家が戦争するのだから、悲劇がいたるところで起こったとしても、仕方のないことなのかも知れない。
 だが、終わってまで、しかも、戦争が終わってすぐには、それほど騒がれていなかったにもかかわらず、かなり時間が掛かって、クルーズアップされたこの事件は、何かの作為があったと思われても仕方がないだろう。
 そこにある新聞社が絡んでいるというから、いかにもの情報操作である。
 戦時中は、情報は政府によって操作されていたが、戦争が終わり、民主化したにもかかわらず、そんな情報操作が行われたなどというのは、これも一種の黒歴史と言ってもいいだろう。
 それを思うと、マスコミというものの、罪と罰は、いまでも受け継がれている悪しき黒歴史と言ってもいいだろう。
こんな歴史がどうすることもできない世界を作り出し、しかも、このウイルスの蔓延も、国家ぐるみの可能性があり、今の話とまんざら無関係でもないというところは皮肉なもので、
「歴史は繰り返す」
 ということなのではないだろうか。
 繰り返された歴史は、たぶん、
「学習するために、繰り返す」
 のではないかという考えもある。
 しかし、それは、
「一度で理解されない」
 という悲しい性によるもので、
「人間というのは、何度も同じ過ちを繰り返す動物なのだ」
 ということであろう。
 しかも、少しでもよくなっているのであればいいのだが、繰り返される歴史は次第に悲惨になっていく。このような状態でいつまで続けられるのかと想うと、どうしようもなく感じられ、何も信じられなくなる人が増えても仕方のないことではないだろうか。

          小説とシナリオ

 あれは父の状態を見に行った帰りのことだった。
 その時は父の見舞いに行ったというよりも、様子を見に行ったと言っていいのは、心お中で、
「早くよくなってほしい」
 などという思いがなかったからである。
 もし、そう思ったとしても、それは、こんな面倒なことを続けていたくないという思いから来るもので、面倒なことはこれっきりにしてもらいたいという考えからだった。
 本当は、死ぬなら早く死んでくれというほどに思っていた相手であり、下手に治療が長引いたりなどしたらたまらない。尊厳死であっても、殺人罪にされかねないこの日本という国なので、自ら手を下すわけにもいかない。まさか呪い殺すわけにもいかない。呪いが通じたとしても、絶対に死ぬとは限らない。下手をすれば寝たきりになったりして、それが一番恐ろしいことであった。
「何て、恐ろしいことを考えるんだ」
 という思いもあったが、考えたところで、その通りになるわけでもなく、罪に問われるわけでもない。ただのストレス解消だと言ってしまえばそれまでだが、もし他の人に知られでもしたら、
「何てひどい息子なんだ」
 と思われることだろう。
 そこには相手の都合などまったくない状態で、その考えだけを切り取ると、
「どんなにひどい息子なんだ」
 と思われるだろう。
 しかし、これがもし他の家庭であれば、病人が生きているだけで、借金が膨れ上がるような家庭の状態であれば、そんな無責任なことが言えるだろうか。いくら殺せば罪になるとはいえ、同情から、
「早く楽にさせてやりたい」
 と思うだろう。
 そのおかげで、家族がもろとも助かるのだ。それでも、尊厳死という考えに、家族の苦労は含まれていない。あくまでも論争は、本人に対しての痛み苦しみに関してのことだったのだ。
 そんな思いを法律はまったく考慮してくれない。安楽死として規定する中で、法廷論争として挙げられた四項目があるが、その中にあるのは、そのすべてが患者に関してのことであった。
 患者の状況、意志、そして病状。それらを考慮に入れているだけで、患者が生きていることで家族がどんなに借金しようとも、どんなに不幸になろうとも、それでも、本人の命、本人の意志の方が大切なのだ。そんなことってあるだろうか?
 確かに、それを認めてしまうと、歯止めが利かなくなるという考えもあるかも知れない。その状態をいいことに、助かるかも知れない命であっても、自分たちのたくわえが減ることと、生き返ることのない状態におけるこれから被る損とを比較して、
「死んでもらうなら早い方がいい」
 ということで、安易に安楽死を認めてしまうというのも、問題はややこしくなるばかりだとも言えるだろう。
 だが、家族がそんな状態になってまで、本人は延命を望むだろうか?
 中には、
「家族が私のせいで苦労すると分かっている場合は、私は延命を望まない」
 という意思があるにも関わらず、家族がどんな状態なのかも分からずに、いたずらに延命されているとすれば、それは、実際に悲劇だと言えないだろうか。
作品名:尊厳死の意味 作家名:森本晃次