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尊厳死の意味

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 しかし、そこに落とし穴がある。このストーリーの場合、一番考えてはいけないことが主人公の考えではないかと思った。考えていることと気持ちを一緒にしてしまったところに違和感があるのではないかと思うのだ。
 考えていることというのは、実際に起こるであろう派生部分まで考えることであり、気持ちというのは、どうなってしまったとしても、自分に素直なのはどう思っているかということであり、当たり前のことであるが、本当はその部分を見ている人は知りたいのではないだろうか。
 つまりは、思っている気持ちと、実際に起きてしまうこととのギャップに見ている人は勘当させられるのであって、結末がハッピーエンドでなければいけないというわけではない。
 特に不治の病で死を免れることはできないということが分かっている時点で、ハッピーエンドなどありえないからだ。
 となると、どうストーリーを展開させるかというと、主人公の気持ちを匂わせながら、まわりの人が彼女を支えているというシーンを作り上げ、それでもどうにもならない運命が待ち構えていることから逃れることができず、
「最後に彼女がどうなれば、一番幸せなのか?」
 ということを。まわりも。主人公本人も考える。
 そして、ラストで、同じ気持ちになって結ばれる恋人同士ということもありだろうし、親兄弟などの肉親であれば、娘を失った親が、それ以降いかに娘の分まで生きようと割り切った人生を歩むことができるかなどという、本来の結末とは違うギャップを感じさせ。ことで、
「生きることとは」
 という命題を感じさせることも、一つの感動だと言えるのではないか。
 これも、一種のハッピーエンドだと言ってもいいだろう。
 ひょっとすると、死んでいった娘も親のことを気にかけていて、
「あの世から、あの子が見守ってくれている」
 と思われたいと感じながら、死んでいったのかも知れない。
 それを、うまく感じさせるドラマ仕立てになっていれば、そのドラマは勘当を与えるものとなるだろう。
 どう転んでもハッピーエンドでは終わらないドラマというのは、そういう気持ちと現実とのギャップをテーマとすることもありではないか。
 実際に映画の恋愛ものなどには、恋人同士のどちらかが、命が短いというのが多い気がする。
 一番難しいテーマのはずなのに、挑戦する人が多いというのは、どういう現象なのかと考える誠也だった、
 ただ、これが自分の身に起きることであれば、まず映画のようにいくわけはないと誰もが思う。それも映画の映画たるゆえんなのだろう。
 それが昨年、母の墓参りに行った時に聞いた話だった。
 今年は、父が入院しているということもあり、一人で墓参りに来た。
 と言っても、今までもずっと一人で来ていたので、別に父が入院していようがいまいが、関係のないことだった。
 最近は仕事もさほど忙しくはない。昨年から、謎の伝染病が全世界を巡っていることで、仕事にも影響しているのか、毎日が定時で終わり当然、残業もない。かと言って、飲み会などできるわけもなく、皆、そそくさと家路を急句、会社によっては、テレワークなる横文字を使っているが要するに在宅勤務である、だが、そうはいかない人、会社もたくさん存在し、自粛とはいえ、さほど通勤人数が減っているわけではない通勤電車に乗って出社しなければいけないその中に誠也もいたのだ。
 父のように持病を持っている人間も結構いて、父が入院している病院も、外来よりも入院患者の多いところであった。それだけ深刻な病気の人が多く、謎の伝染病で運ばれてくる人は今のところは少ないようだった。
 だが、これ以降、流行が増えるようでは、この病院にもいつ患者が増えてくるか分からない。少なくとも病棟を別にするくらいは考えているだろうが、それが守られ亡くなれば、完全に医療は崩壊していると言ってもいいだろう。
 それにしても腹立たしいのは政府の政策と、マスコミである。
 まったくと言っていいほどの、無策無為な状態に、国民は政府に対して、不安の失望しか抱いていない。
 しかも、マスコミに対しては、流行り出した時、あれだけすべての記事が、その伝染病であり、これでもかとばかりに国民に不安を与えて煽っておきながら、一度、収束すると、もう騒がなくなった。
 こういう伝染病というウイルスによるものは、反復して流行するのは分かり切っていたことだ。
 本当は、政府もそのことを踏まえて、一度流行って収束したのだから、その件に関してしっかりと検証し、第二波、第三波が来た時に、いかに学習したことを生かすかがカギなのに、毎回一緒の、
「皆さん、マスクに手洗い、蜜にならないように気を付けてください」
 を来る返すばかりであった。
 政策とすれば、強制力のない時短営業、行動自粛を、
「お願いする」
 というだけで、何んら厳しい対応はやらない。
 最初だけは、ほとんどの店が営業自粛ということで、昼間も飲食店は、
「お持ち帰りのみ」
 という営業だった。
 しかも、そういう有事においては、かならずと言って発生する誹謗中傷であったりデマが飛び交い、ある一定の業種が謂れもない誹謗愁傷を受け、営業妨害のごとく、マスコミを通して、まるで本当のごとく叩かれまくったこともあった。
 これは、確かにデマや誹謗中傷が蔓延るのを分かっていて、それを止めるどころか、そのまま記事にして社会問題として煽ったマスコミに全責任があると言ってもいいだろう。
 それに今の流行りの原因をマスコミが煽ったからだということに、気付いている人が少ないのは残念である。
 政府が無作為なのは、政治家などという人種は、世論に弱いものだ。
 何しろ自分たちは国民によって選ばれた、国家公務員なのだからである。
 世論を一番気にするのは当然のことで、じゃあ、その世論をいかに動かすかというのは、情報である。
 その情報源となっているのはマスコミしかないではないか。
 そのマスコミが世間を煽れば、世間はマスコミに踊らされて、いろいろな意見をネット三書き込む。それが、
「炎上」
 という形で、政治家に影響を与えることになる。
 政治家にとっての、
「我々の政治犯だ」
 というのは、
「マスコミに陽動された市民の反響によってもたらされた情報操作」
 に踊らされる、政治家という人種が保身のためと、特権階級である自分たちの得られる利益を守るという、政治家という看板に自分たちで泥を塗っているかのような判断や政策しかうてないのだ。
 いかに、自分たちが非難をうけないようにしなければいけないか、つまりは、無策こそが彼らにとっての策であった、
 しかし、彼らは知らない。
「無策というのは、知らずに悪に手を染めてしまうことよりも、もっと悪行なのだ」
 ということをである。
 マスコミの恐ろしさというのは、もっと以前からあった。
 かの戦争、いわゆる、
「大東亜戦争」
 においても言えることであった。
 この中には、支那事変というのがあったが、ここであった、
「某都市大虐殺」
 という事件である。
作品名:尊厳死の意味 作家名:森本晃次