神の輪廻転生
本人が夢として認めていないことで、自分は自由に存在することができる。もちろん、勝手な妄想なのだから、何とでも想像できるのだが、それを妄想だというのであれば、あまりいい気分はしてこない。どうしても、本人にとって都合がいいという言葉がついてまわるからだ。
ということになると、自分の存在意義は、本当の自分の影武者であり。都合のいい夢を見せるための俳優であるかのようではないか。
本人がどんな人なのかも分からず、都合よく自分を扱うだけのそんな偉い存在なのかと関堪えると、自分がまるで、
「その人の精神的な奴隷なのではないか?」
と考えてしまうのだった。
つまりは、自分はその人の気持ちの中でしか生きられない。分身のような気もするが、逆に本人にはできない楽しいことを自分ができているということは、明らかに本人にはない何かを持っているということだろう。それが容姿なのか、性格的なものなのか。それとも、妖艶さということなのか。
明らかに、本人にはないもので、ほしいという願望をずっと持ち続けているという、本人にとって、理想の女性なのではないだろうか。
だから、本人というのは、自分t逆を思い浮かべればいいのだ。
「綺麗というわけではなく、妖艶でもなく、不器用で男にモテるわけではない」
そんな女性だと思うのだが、これは逆も言える。
「綺麗というわけではないが、かわいいという雰囲気を醸し出している。妖艶ではないが、清楚な雰囲気があり、秘めたる美しさなるものを持っている。さらに、不器用でモテるわけではないが、一人だけを思い続けるという恋愛マスターのようなところがある」
ということも言えるのではないか。
その思いこそ、里穂が憧れているものであり、
「生まれ変わったら、そんな女性になりたいな」
と感じていた。
「美人は三日経ったら飽きる」
という言葉を聞いたことがあるが、里穂は自分もそんな美人だと思っている。いくら男性を好きになっても飽きられるという意識があるから。
「飽きられるくらいなら、自分から飽きてやろう」
と思うようになった。
その方が気が楽だというもので、一人の彼氏を作るよりも、
「広く浅く」
をモットーにし、その代わり、一回一回を濃厚にすればいいという考えになったのだ。
その考えが、煩わしい人間関係を排除した世界を形成した。それが、今いる里穂の世界だと言えるのではないだろうか。
だが、最近、不思議な現象が里穂に起こってきたのだ。
それまで、煩わしい人間関係を排除したこの世界が居心地よくて、誰からも何も言われない世界が当たり前のように思っていた。
だが、張り合いがないというか、毎日が楽しければいいという世界に、今まで感じたことのなかった、
「飽き」
というものを感じてきた。
飽きを感じてくると、その思いは急に重たさを感じた。重たさなどという感覚は今までに感じたこともなかったが、そこに、人に対しての差別化のようなものが生まれてきた。
付き合っている男性は、皆自分の好みであった。自分は好きなタイプだと思っている人が相手から声をかけてくれたり、自分から声をかけると相手も断ることはない。
もっとも、この世界は断るのも自由である。気に入らない相手であれば、いくらでも断っていいのだし、そこが自由な世界と言われるゆえんでもあった。
そういう意味で、どうしても自分の好きな相手ばかりになるので、男性のタイプも偏ってくる。だから、容姿や雰囲気だけでは相手に差はほとんど感じない。だから、
「今日は最高ランクの男だけど、明日はちょっと劣るんだよな」
という意識を感じることはなかった。
毎回、同じレベルの相手だと自分も思い込んでいるのである。
相手も同じなのかも知れない。
たくさんの女性と交わっているが、その人にとって、自分もその他大勢の中の一人でしかないのだ。
お互い様なので、そこにこだわることはない。だから、嫉妬や妬みなどというものは存在せず、そんなものを持ったが最後、ここでの自由恋愛はできないことになる。すると、ここでの自分の存在意義はなくなってしまい、消滅してしまうことだろう。
そうなるとどうなるのだろう?
消滅してしまうと、その人が存在したという記憶まで、みんなの中から消えていて、記録にも残らないことになる。そうでもなければいきなり消えてしまうなんてありえないだろうし。記憶も記録も消去して、再度リセットすることになるのだろうか?
タイムマシンの懸念として、
「過去に行って余計なことをすると大きく歴史が変わってしまう」
と言われるが。この世界では。
「歴史を変えるのを前提に、一人の人間の存在を消してしまう」
ということになるのだから、発想がまったく違っていると言ってもいいだろう。
一般的な世界は、神様が作ったということになっているが、無限に存在する世界も神様が作ったということなのだろうか。となれば、本当に何人の神様がいるかということになるのだろうが、この発想は、どこを切っても考えられることである。時系列で進んでいても、発想が過去に戻ったり未来に行ったりしても、この発想が途切れることはない。
里穂は神様なんかいないと思っていた。
それは、この世界が当たり前の世界であり、他の世界を考えたこともなかったからだ。
その発想は誰にもないかも知れないが。神様を信じるという発想はある。
そもそも、神様という発想も、人間が自分たちの創造主をどのように理解すればいいのかということを考えた時、誰か自分たちを作った存在がいるということで理屈づけることが一番正当性があるということで、考えたことではないかというのが、一般的な考えではないだろうか。
昔の人が書いた人間の創世記なるものは、今、つまり過去の人が感じる現在で考えたいろいろなことを正当化させる発想で残したものだとは言えないだろうか。
ひょっとすると、昔にも書物は盛んで、ベストセラーのなった作品は残っていなくて、歴史書のようなものだけが大事に受け継がれてきたものなのかも知れない。
そう思うと、ベストセラーのような小説というのは、しょせんその時だけのもので、後世に残すほどのものではないということだろう。
「綺麗な人は三日で飽きる」
という言葉を思い起こさせられるのではないだろうか。
人間なるもの、自分だけが一番だと思っているから。この時代の自分たち以外に、考えることのできる生命体はいないだろうとタカをくくっているのではないだろうか。
その感情が今の世の中に、人間の遺伝子と一緒に受け継がれてきていて、それぞれの世界も時系列に発達してきたことだろう。相対性理論のように、時間の進みが極端に違っている世界も存在しているのかも知れない。
そんな神様がいる世界に、里穂は、存在していた。
里穂のいる世界
里穂のいう、
「本当の自分」
が存在している世界は、果たしてどこなのだろう。
里穂の世界に存在している人たちは、皆自分たちの世界とは違う世界が存在し、本当の自分がいることを分かっている。この世界では学校で、そのことを教わるので、一般常識になっていた。