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神の輪廻転生

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「皆知っていることなので、わざわざ口にすることではない」
 と感じて、里穂の方からまわりに話すことはないだろう。
 もっとも、里穂のような同じ人間に言われても、皆は、
「何を夢みたいなこと」
 と言って、相手にしないに違いない。
 それを思うと、私は、このやり方がベストだと思ったのだ。これでも私は神である。人間の考えていることや行動パターンは分かるつもりである。
 山口のり穂を好きな気持ちを利用するというのは、少し気が引けたが、それも私の野望達成のため、とにかく、まずはこの世界における里穂と山口にはくっついてもらわなければ困るのだ。
 この世界においても、できることとできないことが存在する。他の世界に比べれば、出来ることの方が圧倒的に多いので、できないことは、あくまでも制限の外という認識であった。
 その中の一つに、
「生まれてくる子供を選べない」
 というものがある、
 まりえの世界であったり、他の世界では、
「子供は親を選べない」
 という表現をする。
 その場合は、親が何か悪いことをして、子供にその弊害が及ぶ場合に、そのような表現を使われて、子供がいかに可哀そうな立場なのかを表現している。
 そう、人間というのは、
「生まれてくる時は、自由に生まれてくるわけにはいかないが、死ぬ時くらいは自由でいたい」
 と思っている人がいる。
 死を選べないというのは、戦争などで、どうしても避けられない死の場合などをいう。病気などは、さすがに日頃の節制で何とか死に至るような病気をしないで済むこともあるので、病気を避けられない死ということに弊害を持つ人もいるだろう。ただ、
「死というものは、避けられない運命にある」
 ということであれば、
「生まれる時も、死ぬ時も選ぶことはできない」
 と言えるであろう。
 問題になるのは、自殺の場合である。
 自殺するには、それなりの事情があり、借金などで首が回らなくなった場合に自殺を考えるであろう、だが、借金というものにもいろいろあり、避けられないものも実際にはあるだろう。
 買い物をしすぎたり、欲望に任せて、風俗に入り浸って、借金を膨らませたりした場合には、本人の責任なのだろうが、人の保証人になった場合はどうであろうか?
 これも、避けようと思えばできることで、保証人になんかなるから悪いのだと言われれば、言い返すことなどできないだろう。
 では、今度は本当に避けることのできないこととして、家族が病気で薬代に困ってしまい、借金した場合。これも、見方によれば、
「そんな時に何とかしてくれる知り合いがいれば違ったのではないか?:
 と言われるかも知れないが、結局は誰かに借金をしないとダメである。先ほどの保証人の話にも被るが、他人のために引き受けて、お互いに共倒れになってしまえば、人情論など関係はない。あくまでも、自己責任となってしまう。そうなると、まわりに頼るわけにもいかない。
 この時はさすがに、本人に責任をおっかぶせるのは酷だと言えるのではないだろうか。
 そう思うと、自殺をしようと考えている人を救うことが果たしていいことなのか微妙である。
 自分が何とかしてあげられるのであれば、それでいいのだが、その時に助けても、彼の立場が好転しなければ、また自殺を繰り返すだけだ。そうなると、自殺されてしまった助けた人間は、一生そのトラウマを抱えて生きていかなければいけない。どう考えれば、その時に黙って死なせてやるのが人情ではないか。
「死んで花実が咲くものか」
 などという言葉があるが、生きていても、まったく花が咲く見込みのない生きる屍に対して、どう対応すればいいというのか。
 非常に難しい究極の選択になるのだろうが、普通に考えれば、死なせてやる方が人情であろう。それをどういう観点からなのか分からないが、
「それでも生きなければいけない」
 という人間は、何を根拠にいうのだろう。
 その人がいつどのようにして復活するかということが分かって。その根拠を示すことができないのであれば、
「死の自由」
 を与えてやるべきではないのか?
 これは安楽死(ドイツ語で、オイタナジー)の問題とも絡んでくるもので、この場合も、
「早く楽になりたい」
 という本人の希望であれば、叶えないわけにもいかないだろう、
安楽死というものには、二つの考え方がある。積極的という意味と、消極的という意味である、積極的というのは、死が目前に迫っている人を、手を下して死なせること。つまり、人工呼吸器の電源を切ったり、点滴を止めたりして、死に至らしめる場合である。そして消極的というのは、最初から延命を行わない場合である、消極的の中には、本人の意志で、
「いよいよの時は苦しまないように、延命処置を施さないでくれ」
 というものがあったりした場合が考えられる、
 まりえの世界で考えると、積極的な安楽死は、殺人教唆として殺人に値するとされる。ただし、いくつかの条件をすべて満たしていれば阻却されるというものでもあり、例えば、本人の積極的な意思があり、延命してもほとんど効果がない場合。本人が苦痛に苛まれていて堪えがたい場合などが「すべて」必要なのだ。
 だが、消極的なものに関しては、基本的には本人の意思があれば、問題はないとされる。しかも、本人が意識不明に陥った場合など、一番本人に近い近親者の申告であれば、本人の申告とみなすというものでもあり、比較的容認される場合が多い。
 ただ、この場合の気になる部分があるのを、誰も指摘しないのが私は気になっていた。
「延命処置などは、かなりのお金がかかるはずである。癌や白血病などのような不治の病であれば、保険も適用されるが、では、植物人間となってしまった場合はどうなのか? 何年も生きているだけで反応しない。お金も相当かかるだろうし、下手をすれば、治療費のために、娘が身売りをしたり、借金で首が回らなくなる場合だってあるだろう。そんな状態になっても、安楽死の要件としてはその部分はまったく考慮されないのだ。本人の尊厳は確かに大切であろうが、それを支える家族にどのような災いが起こるかを考えると、安楽死を認めないというのは、真綿で首を絞められるようなものではないか。誰も助けてくれるわけではない。本当に神も仏もないと思い、変なカルト教団に引っかかってしまう可能性だってあるのだ。カルト集団を取り締まるのも確かに大切だが、それ以上に、そんな悲劇を生まないようにするのが先決ではないか。それを思えば、安楽死も『尊厳ある死』という意味で、ありなのではないか」
 と私は思うのだった。
 もちろん、この問題は同じ世界で、別の国々で賛否両論がある。それだけに一概にその世界だけを切り取って話すわけにはいかないが、里穂の世界、つまり私が神を務める世界では、尊厳死はありであった。
 つまり、積極的であっても、消極的であっても、安楽死は認められている。本人の意志に基づく必要もない。逆に問題なのは、尊厳死を認めない場合であった。
 家族の中には、
「一縷の望み」
 に掛けている人もいる。
作品名:神の輪廻転生 作家名:森本晃次