悪魔のサナトリウム
などというのも、月の引力の関係だというではないか。
そもそも地球は元々海だったのだ。潮の満ち引きによって、生命が生まれたということは考えられないだろうか。
ということになれば、月のような衛星は、地球のような惑星の、
「命の源」
ということができるのではないだろうか。
それを感じさせるのが、月に対しての昔からの人の尊敬の念である。
何と言っても、昔は月の周期を暦としていたわけなので、それだけ、人類の生存、発展に不可欠なものであるか、ということである。
普通の人は。なかなか空を見上げることをしない。今は宣伝しなければ、中秋の名月といっても、空を見上げてお月見などということはしないだろう。
それこそ、月というのは、
「空に浮かんだ『路傍の石』だ」
と言っても過言ではない。
では、今回における、
「路傍の石」
というのは何だろう?
見えているようでみえていないもおが目の前にあって、その障害が今回の事件を形成しているのかも知れない、
一つ気になっているのは、今回、安藤という男が催眠療法に興味を示しているということだった。
「安藤さんは、催眠梁上に関してはどう考えてるんですか?」
と聞いてみた。
「催眠療法というのは記憶喪失になった人に聞くのかどうか、少し気になっているところがあります。それよりも、ちょっと気になっているのが、催眠術で記憶喪失を治すということよりも、記憶喪失になった原因が催眠術によるものもあったのではないかと思うことなんです。催眠術によって記憶喪失になったのであれば、催眠療法って、本当に聞くのだろうか? って思うんですよ」
と安藤は答えた。
「どういうことですか?」
「催眠を掛けるというのは、まず相手を催眠が掛かりやすいように、暗示に書けるためのキーワードを覚えさせるという、一種の催眠のようなものが必要なんです。だから、その影響でなってしまった記憶喪失を解く場合には、まずそのキーワードを解く必要がある。そのための催眠でないと、催眠療法も効果がないんですよ。だから、催眠術で記憶喪失を解くというのは、私は難しいと思っているんです」
と安藤がいうので、
「でも、それは記憶喪失の原因が催眠術による場合の時のことでしょう?」
とつかさが聞くので、
「ええ、確かにそうですが、記憶喪失というのは皆催眠なんです、他人が掛けた催眠でなければ、本人が掛けた催眠によって、記憶喪失になる、私はそう思っています」
と、安藤はいうのだった。
つかさは、その話を訊いて、一種の違和感を抱いた。確かに記憶喪失というのは、元々は外的なもの、つまり殴られたりすることから起こる場合がほとんどなのに、その一瞬で、記憶を失うというスイッチが入ってしまうののだろうかということである。
もし、そんなスイッチが入ってしまうのであれば、最初からそのスイッチを入れるリーチのような状態になっていると考えるのが妥当ではないか。姉に果たしてそんなものがあったのかどうか、一緒にいる限りでは考えにくかったのである。
何かを言いたいけど黙っているという雰囲気も、何かを意識させるための、催眠も感じられなかった。それを思うと、果たして本当に姉の中に記憶喪失に関するスイッチが存在したのかどうか分からない。
そのスイッチにしても疑問であった。
記憶喪失になるためのスイッチなるものは、最初から誰にでも存在しているものなのか、何か催眠によって、架空のスイッチが創造され、何かのきっかけによって、そのスイッチが押されてしまうことがあるのではないかということである。
そしてそのスイッチのようなものをその人の中に感じることができる人がいるのかどうか。どんなに意識しようとも感じることができず、最終的にスイッチを押した人間は本人ではないにしても、押されたスイッチが、起爆することによって、めでたく(?)記憶喪失になることができたのであれば、それが本人にとっていいことだったのだろうか?
ひょっとすると、そのスイッチというのは、記憶喪失に阿木らず、その人の精神に疾患を与えるだけのものだったのかも知れない。精神疾患の中で一番表に出てくる現象として記憶喪失が強いのであれば、それが、記憶を失ったことが表に出るということで、他の精神疾患は目立たないだけで、十分に意識を支配しているのだろう。
だから、記憶喪失だけを見て、それだけを治そうとしても無理があるのだ。本当の精神疾患、つまり記憶喪失になった原因を理解するためにどのようになればいいのかが、問題ではないかと思うのだった。
「姉に催眠を掛けて、記憶喪失を誘発させた人がいるということでしょうか?」
とつかさが訊くと、
「その考えがないとは言い切れないですね。お姉さんは見ている限り、目立った精神疾患は見られません。でも、何かが潜んでいるのは間違いないです。我々、神経科の医者や研究員というものは、ここだけの話ですが、記憶喪失に掛かっている人のそのほとんどは、見えていない精神疾患を宿していると思っています。だから、まずは記憶喪失に直接かかわるのではなく、精神疾患を見極めるところから始めるのです。ここでいう催眠療法というのは、ある意味そんな精神疾患を見つけるという意味で、潜在意識に語り掛けるという方法を考えています。だから今回も私は、そのつもりでいうんですよ」
と、安藤は言った。
「それじゃあ、姉に対して何か。記憶喪失に陥る爆弾を投下した人がいるということですね?」
「ええ、そうですね。でも、今の私の段階では何とも言えません、教授からも研究を止められていますからね」
と安藤がいうので、
「それは、安藤さんに限らず、最初は皆そうあるべきという教授なりの考えがあるんじゃないですか?」
「そうかも知れないし、そうではないのかも知れない。私にはよく分かりません」
と、最後の方には、何か煮え切らないというよりも、気持ちを押し付けているかのような意識があった。
ただ、投げやりな態度を見ていると、安藤はいつになく、精神的に普段と違う気がした。
――いや、いつもと違って感じるのは、自分の中で何かに切れているという思いがあるからではないだろうか?
と考えるようになっていた。
「姉の中にもう一人誰かがいるような気がするんですけど」
とつかさがいうと、
「私は、誰にでもその人の中に二人はいるような気がしています。あからさまに二重人格性のある人もいますからね。そして、そのもう一人が、普段から落ち着いて見える表に出ている自分を誘発することもあるでしょう。人によっては、自分が他人と同じでは嫌だ。我慢ができないと思っていたり、言葉に出さなければいられないという人がいると思います。その人をいかに、我慢させるかというよりも、誰の被害にもないところで、爆発させてあげられるか。それも一種の催眠療法なのではないかと思うんです」
「なるほど、では自分の中に隠れているもう一人の自分が、『悪魔の申し子』のような恐ろしい人間である可能性もあるということですね?」
とつかさがいうと、
「そういうこともあるというだけですね」
と、自分はその意見に賛同してはいけないという意識がそこで生まれてきたかのように感じられた。