悪魔のサナトリウム
姉が今どうして、記憶喪失なのか、つかさは考えていた。今までの姉から考えると、思い浮かばない。別に記憶を隠す必要などない。兄かに不安がっていたりとか。気になることがあったりなどという話も聞いた覚えはない。
少なくとも姉はつかさに対して、いろいろ隠し事をするようなことはなかった。一番仲のよい姉妹であり。人が羨むようなこの関係は、決して他の誰もマネのできないものだと、つかさは自負していた。
――これは、私が思い込んでいただけなんだろうか?
と感じていた。
姉が一体どのようにして記憶を失ってしまったのか。そういえば、姉を殴ったという人は自首してきたということだが、どうも姉との利害関係者ではないということだった。警察に聞いた話しでは、
「お姉さんは巻き込まれたか、あるいは、不特定多数の中で運悪く選ばれてしまったかのどちらかだとは思います」
と言っていた。
どちらにしても、溜まったものではない、少なくともそんな事件がなければ、姉は記憶喪失にはならなかったのだから。
「だが、待って? 本当にそうなのかしら? ひょっとすると姉は殴られたというのは偶然で、本当は殴られる前から記憶を失っていたのかも知れない」
と感じた。
姉は、記憶を失っていたか、意識が朦朧としているところに、犯人を見てしまったことで、証拠隠滅のために殴られたのかも知れない。そうであれば、
「巻き込まれた」
という言葉も信憑性が生まれてくる。
姉は最近疲れていた。
「リラクゼーションにでも行ってこようかしら?」
と冗談っぽく言っていたが、本気だったのかも知れない。
つかさもそれを訊いて、
「じゃあ、今度一緒に行こうか?」
と言ったことで、姉が本当に疲れだけでそんなことを言ったとつかさが思っていると感じたのかも知れない。
その時点で実際に記憶を失っていたとは思えない。
「そういえば、記憶って、いきなり失うものなのかしら?」
基本的には、外的なショックが肉体的に、そして精神的に襲ってきて、衝撃を受けたことで記憶が喪失してしまうものであると考えると、記憶が徐々に消えていくという発想は生まれてこない。
私が記憶を失ったとした時、どんな感じになるのかを、姉を見ていて想像してみた。まわりにいる人が誰なのか分からないのは間違いないだろう。そして、精神的に正常でないことも想像がつく。なぜなら、正常な状態で、これだけまわりのことが分からなければ、これほどぼーーとしているとはいえ、平気でいられるわけはない。
「私、誰なの? どうしてここにいるの?」
とパニックになってしまって、自分が誰であるか分からないことへの恐怖が襲ってくるのが、正常な状態であろう。だから、記憶喪失は精神が正常であれば、病気の一種であり、正常でなければ、病気ではないという発想になるのかも知れない。
記憶喪失というものはつかさにとって、未知の病気であった。自分もまわりに、しかも一番近しい関係にある姉に記憶喪失が忍び寄ってくるなど、想像もしていなかったので、ショックというよりも、唖然としていると言った方がいいだろう。
実際に姉は恐怖を感じているわけでもなく、寂しそうにしているわけでもない。そういう意味では精神に異常をきたしているのだろうから、心配しなければいけないだろう。
しかし、つかさは心配ではあるが、本心は。
――このままでいてほしい――
という気持ちがあった。
姉と自分との関係は、今までにはなかった関係で、ずっと上しか見ていなかった姉の存在を、今度は自分が介護することで逆の立場になっているのが嬉しかった。
本当はこんなことを感じてはいけないのだろうが、
「姉はきっとよくなる」
という思いを込めることで、姉を下にみようというのは、実に都合のいい考え方なのではないだろうか。
さらに記憶喪失となったら、姉は自分を慕ってくれている。ずっとそう思っていたが、最近では少し違っているような気がする。最初記憶喪失として家に帰ってきた時は確かに、不安からか自分を慕ってくれているような気がしたが、一度爆発して再入院してからは、あまり妹を慕っている様子はない。前述のように、不安という感じが見受けれなかったのだ。
それも、既成を挙げて暴れそうになった時に、何かが音を立てて切れたかのように感じたのは、気のせいではなかったのかも知れない。
「記憶を失うということを経験したことがないから」
というのは、確かに言い訳だ。
しかし、姉はその思いを何か巧みに利用しようとしているように思えてならなかった。
妹の方から歩み寄っているつもりでも、どうして上から目線になることで、ある程度より先は足を踏み入れないという領域を、妹の方で無意識に持っていると思っているのかも知れない。妹は妹で、姉は姉でお互いの気持ちを探り合っているかのようだった。
姉が病院に戻ってきてからは、看護婦さんをまるで自分の代わりのように慕っているかのように思えた。
姉がどうしてつかさを避けるようになったのか、どうやらそれを知っているのは、安藤のようだった。
看護婦は別に何も知らない。
「私は、お姉さんの看護を仕事としてしているだけなので」
と後になって事件が解決してから、彼女はそう言っていたが、その通りであろう。
姉に看護婦を慕うように指示したのは、安藤だったようだ。
このことは、つかさが安藤に直接聞いて、安藤が答えたことだった。
「お姉ちゃんが、最近私にあまり頼ってこないんだけど、安藤さんは何か知っている?」
と聞くと、
「ああ、それはね、僕が指示したんだよ。妹さんはいつも来れるわけではないので、ここにいる間は看護婦がいるので、彼女を慕うようにねってね。依頼心が芽生えてしまうと、それを払拭するのは結構大変ですからね。相手が誰であっても同じなんですよ。肉親に対しての依頼心よりも、ここにいる間だけの依頼心であれば、これほど気が楽なものはありませんからね」
と、安藤は言った。
「そうだったんですね。確かにそうかも知れない。もし姉の記憶が戻ったとして、姉は前の性格に戻るんでしょうか?」
と聞くと、
「それは何とも言えないですね。その答えとしては、お姉さんが記憶を取り戻した時、記憶のなかった時期のことをどのように対処するかですね。自分でまた封印してしまうか、それとも。どちらも自分の記憶として残しておこうとするか、それも記憶という意識が戻ってきた時に、どっちの自分を感じるかです。ある意味二重人格のようですが。どちらかは、必ず裏に回るんですからね」
と言った。
「元々姉に二つの性格があったわけではないんですか?」
「元々の二重人格者は、そこから三重人格になるということはありません。しかし、裏表のなかった人は記憶喪失になったことで、もう一つの性格が生まれてきます。それが元からあったものかどうかは、分かりませんけどね」
と安藤はいう。
「これも私の勝手な考えですが、先生にも話したことはありません。いずれは理論立てて話し手みようとは思っていますが、だから、こんな話をするのは、つかささんが初めてですね」
と、安藤は続けた。
「そんな大事な意見を私なんかに話していいんですか?」
と聞くと、