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悪魔のサナトリウム

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 と姉が言ったので、喫茶店に寄ってみた。
 散歩して汗を掻いている状態なので、つかさはアイスコーヒーを注文したが、姉は敢えてホットコーヒーにしていた。
 そして、運ばれてきたコーヒーの表面をじっと見ている。まったく触ったというわけでもないのに、最初波紋はなかったが、姉が凝視していると、急に波紋が起こってきた気がした。
 コーヒーカップのような小さな世界のものであれば、風の影響はほとんどないだろう。自分でスプーンを使ってかき混ぜたりしない限り、家紋は見えない気がした。
 それなのに、何もしておらず、姉がじっと見つめているだけで波紋が広がって見えるのは何かの神通力であろうか。
 しかし、じっと見ているのは姉だけではない、他ならぬ自分も一緒になって見ているのだ。一人では無理だが、少々違った意識の二人が診ることで、力は三人にも四人にもなってしまうような気がする。
「本当にすごいんだわ」
 と、姉妹の力のすごさなのだろうと、つかさは思っていた。
 姉のことを考えていると、喫茶店での時間があっという間だった。ただ、その頃からつかさは、
「一日があっという間に過ぎていく気がする」
 と感じるようになっていた。
 一日というのは、それまでは、一日のどこかで印象的な時間帯があれば、その時だけは時間の進みが遅いものだと思っていた。
 しかし、姉が記憶喪失になった頃からくらいであろうか、一日一日、それぞれの時間に早さ遅さがまったく変わらず、一定のスピードで過ぎていると思うようになった。ただ、今日が普通に二十四時間くらいだと感じていたとして、翌日は二十時間くらいに感じるのか、三十時間くらいに感じるのかは、まったく予想がつかない。つまり一日単位で、感じる時間に差があるということだ。
 しかも、一日の中の流れる時間は一定なので、つまりは、最初に感じた時間が、そのまま一日変わらないということになると言ってもいいだろう。
――何か姉が私に暗示を掛けたのではないか?
 と感じるほどだった。
 姉が記憶喪失になってから、つかさは今までの自分とは違ってきていることに気づいていた。それがどういう内容なのか、その時々でいつも新しい発見があるので、意識がついていけていないというのが本音だった。
 つかさは、子供の頃から、
「私たちって本当に姉妹なのかしら?」
 と感じていた。
 姉はいつも冷静で年上というよりも、年下の男の子にモテていたようだった。
 それを姉は、
「本当は年上からモテたいのに」
 とずっと言っていたのだが、大学生になった頃くらいからだろうか、年下にモテるというのもまんざらでもないという感覚になってきたように感じられた。
 それに比べてつかさの方は、年上からモテる女の子で、姉のように落ち着きがあるわけではなく、あざとさによってモテているという感じで、いかにも年上が好きになる女の子の典型という感じだった。
 それは、つかさが、
「私には、こういうモテからしかできない」
 と感じているからであって、それはつかさに限らず、ほとんどの女の子が感じていることではないかと思っていた。
 男の子というのは、女の子のちょっとした甘える姿に萌えを感じるものであり、好きという感情を表しやすいのが、あざとさに対して、感じてしまった男性なのではないかと思っている。実際には違っているのではないかという思いの方が強いが、そう思うことで自分を正当化できるのであれば、それはそれでいいのではないかと思うのだった。
 姉はつかさのようなあざとさはまったくない。だから、年上から意識されることはない。
「彼女はクールビューティだから、俺のような普通の男では太刀打ちできない」
 と思われがちなのだろう。
 一種の。
「高嶺の花」
 とでもいうべきか。憧れとは別に、相手に対してコンプレックスを抱かせるタイプなのかも知れない。
 しかし、以前つかさが付き合っていた男の子が言っていた。
「お前のお姉ちゃん、近づきがたいところがあるよな」
「というと?」
「だって、俺なんか相手にしてくれない雰囲気を醸し出しているじゃないか。俺だって近づきにくいし」
「私くらいでちょうどいいのよね」
「うん、どうだね。でも、おれが子供の頃だったら、お姉ちゃんのようなタイプ、憧れちゃうんだよな。お姉ちゃんが年下から慕われるというのも分かる気がする。でも、よく見ていると、お姉ちゃんは煩わしく思っているようだね。だったら、好かれない方がいいような気がするんだよ」
 というような会話をしたのを覚えている。
 男性というのは、子供の頃は背伸びしたいと思うのか、姉のような女性に対して、免疫もないので、怖いという感覚はないのだろう。
 ということはあの時彼は、
「お前のお姉ちゃんはちょっと怖い」
 とでも言いたかったのかも知れない。
 そんなことを感じていると、つかさは自分が好きな男性へのイメージも少し狂っていく気がした。
 つかさは、ふと別のことをまたしても頭に描いていた。
「姉は、ひょっとすると、今は自転車に乗れるようになったのかも知れない」
 という思いだった。
「記憶喪失になると、いつも何かに怯えている自分を解放させたいという思いが原因であることもあるので、それまで不安に感じていたようなことを感じなくなるのかも知れないね。怖いもの知らずというか、そういうところがあるので、気を付けないといけない」
 と教授が言っていた。
「じゃあ、何か危険なことをしてしまうかも知れないと?」
 と聞くと、
「そこまではないと思うんですよね。危険を察知したり、自分にとって何が危険なことなのかは本能が覚えているからね。でも、それまで自分の気持ちを解放したくてもできなかった部分を解放させようとする気持ちは大いにあると思うの、だから、それが解放されたことで、本当にお姉さんが考えていたような世界が広がるとは限らない。それを感じた時のお姉さんがどのようなリアクションを起こすか、それが怖い気はするんだよね」
 と教授が言った。
「なかなか、難しいわね」
 とつかさは言ったが、何を難しいと思ったのだろう?
 博士の話自体が難しいと思ったのだろうか? それよりも、不安に感じていることというのは姉に限らず自分にもあり、誰にでもあるものではないかとさえ感じている。解放することで、まわりを巻き込むことを恐れているというのが、一番不安に感じていることなのではないか。この考えは、
「堂々巡りを繰り返しているかのように思う」
 という考えが頭の中にあった。
 記憶喪失になってからは、正直会話をするのが怖い。相手が何を考えているのか分からないという思いから、余計なことを言って、思い出せるはずの記憶を思い出すことができなくなるのを恐れているからだ。
「姉の方では私のことを恐怖に思っているのだろうか?」
 と考えたが、恐怖ということではないようだ。
 たまに暗い顔になるが、基本は天津爛漫に笑っている。

               悪魔の申し子
作品名:悪魔のサナトリウム 作家名:森本晃次