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悪魔のサナトリウム

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 そういう意味で、コーヒールンバという曲の歌詞は正解なのかも知れない。そんな風に思っていると、コーヒーが飲みたくなることがあった。大学生の頃までは、自分からコーヒーを飲むということはなかった。誰かに誘われて飲むか、待ち合わせの時間に飲むことはあっても、自分から敢えてコーヒーを飲みたいと思うことはなかった。
 姉と一緒に呑むコーヒーがこんなにおいしいものだったとは思わなかった。学生時代の友達や先輩との間では、気持ちに余裕がある時でないと、飲まないのだろうと思っていただけに、今のように、就職もできず、中途半端で、姉の記憶も戻らないような状態で、精神的に余裕などあるはずもないと思うのだった。
 姉とコーヒーを飲んでいると、なぜかつかさの方の記憶がよみがえってくるのを感じた。それは大学二年生の頃のことで、あれは冬だっただろうか。
「この人いいな」
 と思える人がいて、その人と一緒に大学の近くの喫茶店に入った時のことだった。
 一緒に入った時、店内はコーヒーの香りで充満していた。充満した香りは木造のまるでバンガローのような建築形式の壁に吸い込まれるようで、そのまま湿気がコーヒーの香りを室内に充満させる効果があったのだ。
 その時はコーヒーの香りに酔っていたような気がした。暖かさが充満した中でのコーヒーの香りは、運ばれてきた注文したコーヒーの味をまろやかにするものだった。苦いとは感じないその味に、まるやかさだけが残こることもあるのだと、その時初めて感じたのだった。
 マンションに住んでいる友達のところに行って、コーヒーを淹れてもらった時も、部屋の中に湿気が充満していた。
「この時期になると結露が激しくてね。出窓のところにカーテンをあつらえていたんだけど、すぐにドロドロになっちゃって、本当に困ったものよ」
 と言っていたっけ。
 カーテンを洗濯したのが、出窓のところの木造の部分が水分を吸ってしまったようで、どうしようもなくなっていた。もう、出窓のところに何かを置くということはできなくなってしまったようだ。
 それを思い出してみたが、その喫茶店にも出窓があって、以前マスターに、
「出窓って、湿気た時大変でしょう?」
 と聞くと、
「ええ、だから何も置かないようにしているんです。出窓を作ったのは、正直失敗だったと思っているんだ」
 と言っていた。
 その時、つかさはいいと思っている男性から告白された。本当は嫌なわけではなかったが、なぜか返事を待ってもらった。いきなりだったというのもあるが、
―ーひょっとすると、コーヒーの香りが彼の神経を誘発したのかな?
 と感じた。
 コーヒーというのは、眠気を覚ます効果があるというが、つかさにはその感覚はなかった。確かに気が高ぶっている時にこーひを飲むと眠れなくなる気がするが、コーヒーを飲んだからと言って、睡魔が襲ってこないというわけでもない。

                  姉の記憶

 結局その時、好きなはずの彼の告白に対して、返事ができないまま、つかさの淡い恋は終わってしまった。
「どうして、あの時」
 という思いが過去にあったとすれば、最初に思い浮かぶ記憶はこの時であろう。
 それは好きな人に告白するというだけではなく、他のことにおいても同じなのだが、そこまで何も後悔のない人生を歩んできたなどと自分で思うことはない。
 人生において、後悔がない人などいないだろうが、この時までに、後悔の念を抱いていた感覚がないというのは喜ぶべきことなのだろうか?
「知らぬが仏」
 という言葉があるが、ただ単に気づいていないだけなのかも知れない。
 気付いていないということは、いつも一人でいることが多いつかさにとって、気付かせてくれるきっかけになる材料を与えてくれる人がいないということであろうか。
 確かにいつも一人でいるという自覚はあるが、それを悪いことだとは思わない。学校でも通学路でも、今までの感覚で、人とつるんでいるのを見るのは、どこか醜いものを見ているような感覚があり、そのためか、スマホをあまり活用していない。
「どうしてあんな危ないのに、スマホばかり見て、前を見ないんだ?」
 というところから始まった。
 相手が避けてくれるとでも思っているのか?
 そんなバカなことはない。自分がスマホに夢中になっているのだから、相手だって同じように夢中にならないとは限らない。お互いに前を気にしなければ、ぶつかるのは当然だ。
 だが、中には、
「皆が危ないと思って気を配るようになると、前を見ていなくても、感覚で人が歩いてくるのが分かるかも知れない」
 という思いがあるのではないかと思った。
 だが、それは、すぐにつかさの中で打ち消された。何と言っても前を意識せずにスマホばかりを見ている姿は、これほど醜いものはないだろうと感じたからだ。
 スマホを見ながら下ばかり見ている姿を見るのがこれほど情けないものだとは思わなかった。以前は、まだガラケーだった頃も同じだったが、最初は皆そんな光景を、違和感を持って感じていたはずなのに、いつの間に、皆右に倣えになってしまったのだろう。
 まっすぐに前を見ていると、目の前から来たスマホばかりを見ている人が、急にドキッとして立ち止まったりしていたものだ。
 しかし、今は避けることは避けるが、ビックリしている人はほとんどいない。人が歩いてくることが分かっているので、驚くだけ体力の無駄だと思ったのか、それとも、驚くという感覚を失ってしまったことに気づいていないのかである。
「それって、記憶喪失の一種なのでは?」
 とつかさは感じた。
 教授の話では、
「記憶喪失のほとんどは、潜在意識が無意識に自分の記憶を格納しようと思っているからではないか」
 と言っていた。
 だが、この前を見ていて誰も驚かなくなった感覚は、少しニュアンスが違っている。
「驚くという感覚がマヒしてしまったのではないか」
 というもので、記憶喪失のように、潜在意識のなせる業とは少し違っている。
 潜在意識としては。
「スマホを見ながらでも歩けるようになれればいい」
 と感じるものであろう。
 だが、実際にはそういう感覚ではない。
「前を見なくてもぶつからなければいい」
 という一歩先に進んだ感覚だけが独立しているように感じる。
 その思いはあくまでも、都合のいい考えで。目の前に迫ってくる人間を無意識にでも意識できればいいというような、本当に自分本位の都合のいい考え方である。
「目の前から来る人に気を遣って、自分が先に気づいてあげなければいけない」
 などとは、これっぽっちも思っていないだろう。
 簡単にいれば、
「自分さえよければそれでいい」
 という単純な自己中心的な考えだということになるのだろう。
 さらに気になるのは、
「歩道の自転車走行」
 である。
 最近は、世相を反映してか。〇〇イーツなる、お弁当屋出前のようなものが流行っている。その配達員が自転車での配達になるのだ。
 もちろん、すべての配達員が悪いなどと言っているわけではない。そもそも、自転車に乗っている連中のマナーの悪さは今に始まったことではない。特に外人どものマナーの悪さは群を抜いていた。
作品名:悪魔のサナトリウム 作家名:森本晃次