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悪魔のサナトリウム

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 要するに、何事かを考える時というのは、結論を求めるのではなく、考えて自分の中で結論ができなくても、納得できるのであれば、結論が決まらなくてもいいのではないかと思うようになった。
 ただ、躁鬱症を考える時、最初に考えるのは、まず躁状態から鬱に陥る時のイメージが浮かぶのであった。なぜなら、
「鬱に入るという漠然とした予感があるが、具体的にいつ入るかという意識はないが、逆に鬱状態から躁状態に移行する時は、漠然とした予感がない分、今から鬱を抜けるという感覚がある」
 と考えるのであった。
 鬱状態から躁状態に抜ける時は、まるでトンネルの中の暗黒から抜ける感覚である。つまり、表の明かりが漏れてくると、その瞬間、
「鬱から向ける」
 という意識が生まれるのであった。
 トンネルは、黄色いハロゲンランプに見られるような、光景の中、モノクロームな映像が不気味さを醸し出し、それだけに印象が深く残ってしまう。そういう意味で、躁状態に抜けたことで、トンネル内の記憶が少しだけ薄れたような気がするという程度に抑えられているのかも知れない。
 鬱状態では、モノクロームなはずなのに、なぜか信号だけは色を感じるようだ。それも原色に近く感じるのであって、信号の青は、緑ではなく、真っ青に見える、赤は眩しいわけではないのに、真っ赤な色が眩しい時と変わらないくらいにハッキリと見えているのである。
 それを、
「まるで血の色のようだ」
 と思い、鉄分を含んだ臭いを感じさせるのは、なぜなのであろう?
 鬱状態というのは、決して躁状態の逆ではないということは、同じ青が緑と真っ青の違い程度のものではないかと思うのであった。
 鬱状態に陥った時には、まるで黄砂が吹いた時のような、全体的に黄色い空気に見えることがある、黄色い空気を見ると、臭いもともなっているようで、色が黄色というと、異臭がひどい者であることは想像がつくようだった。
 黄色い塵が散っている感覚は、身体がだるい時の夕方の感覚があった。それも夏の時のだるさであり、睡魔が襲ってくる感覚があることから、鬱状態に陥っている時は、眠りにつく前が一番幸せだった。その分、目が覚めた時が一番つらい感覚で、夢を覚えておらず、現実に引き戻されたことで、辛さを感じるのだから、それだけ夢が楽しいものだったという意識を持つのではないだろうか。
 しかも鬱状態の時は、何をやっていても、少しも楽しくはなく、今が悪い方にいるにも関わらず、さらに悪い方に考えてしまっている自分を不思議に思うのであった。
 ただ、鬱状態の時は、いつも眠たいと思っているような気がする。しかし、眠いと思っていても眠れるかどうかというのは別のものであり、眠れないことを苛立ちに感じているはずなのに、苛立たないというのは、それだけ、感覚がマヒしているのではないかと思うのだった。
 鬱状態というのは、毎日毎日は果てしなく長い気がして、一日が終わらない感覚にある。それは夕方がずっと続いているような気がするからで、夜になると、時間があっという間に過ぎてしまうとすれば、時間の辻褄が合うのかも知れないが、日が暮れると、
「ここから先が本番だ」
 と思うのかも知れない。
 どうして夜になると、本番だと思うのかというと、信号機の青がさらに真っ青に感じられ、赤が真っ赤に感じるという状態が、さらに進化するからである。普段でも、夜は昼に比べて、原色に違づく習性にあるからだった。
 その習性は鬱状態での方が大きく、鬱状態から脱する時に、一度、真っ赤と真っ青を感じることで、見えてくるのが、躁状態への出口のような気がする。
 黄色い色が、身体のだるさを誘発し、鬱状態に陥った時、モノクロームになるので、色を感じるようになることが、鬱状態の出口なのだろう。
 そして実際に躁状態に入ると、今度はあ、色が曖昧に感じられる、
 信号の青が緑に見えて、真っ赤ではなく、朱色という感じで、朱肉の色というと一番分かりやすいような気がする。
 躁状態になると、今度は一日があっという間ではあるが、週単位、月単位になると、結構時間が掛かっているような気がするのだが、そう思っていると、躁状態から鬱状態に入り込む漠然とした感覚に陥ると、それまでの時間が長かったはずなのに、鬱状態から抜けた時のことを、まるで昨日のことのように思い出すのだった。
 その感覚は安藤だけが感じているものであったが、他の人には誰も感じることではないと思っていた。
 自分だけだと思うことは結構あって、それ以外の人は何を考えているのかが分からない気がしていた。
 時間の感覚に関しては区切った感覚によって、まったく違うのは、鬱であっても躁状態であっても同じであったが、よく考えれば正反対なのだった。ただ、それは安藤だけが感じているものなので他の人がどうなのか分からなかった。
 安藤は、研究する時に、袴田教授にいちいち意見を聞いていたが、
「うんうん、なかなかいい発想をしているよ」
 と言って褒めてくれているが、ここまで褒められると、それは教授の童貞内のことなのであろうと思えてならなかった。
 いい意味でも悪い意味でも教授の想定外であれば、きっと教授は自分の中で危機感を感じるからなのからか、嫉妬心からなのか、噛みつかれそうな感覚に陥るのであった。
 安藤氏にとって、教授の反応は、絶えず気に掛けなければいけないことだった。それは助手としてというよりも、今後の研究員のタマゴという意識があるからなのかも知れない。
 安藤は、今気になっているのは、記憶喪失の弥生だったのだが、弥生は記憶喪失なので、躁鬱を研究している安藤とは違うものだった。
 だが、弥生に付き添っている妹のつかさを見た時、
―ーこの子の方が、躁鬱を感じさせる――
 と思ったのだ。
 記憶喪失の人に、躁鬱がないとは言い切れないが、それは過去の忘れてしまった記憶なだけで、記憶と違ったところで、感情としての躁鬱は存在しているだろうから、記憶のない人にも躁鬱症は存在するのではないかと思えたのだ。
 躁鬱と記憶喪失、一見まったく関係のないもののように思えたが、教授はそうは思っていないようだ・
「関連性はないが、関係がないわけではない」
 という思いが、教授の中にはあった。
 教授にとって、研究はいろいろな発想が結び付いているものであった。
 記憶喪失は患っていると言っていいものかどうか、ハッキリとしない。無意識の中で意識的に忘れようとしている場合、それを病気の一種とするのだとすれば、別の要因の病気だと言えるだろう。
 記憶を失うということは、自分にとってどういうことを示しているのだろうか?
 都合の悪いことを忘れてしまいたいとは思わないだろうが、ショックなことであったり、辛い思い出は忘れてしまおうとするだろう。そういうショックなこと辛い思い出が、都合の悪いことと結びついていれば、
「ショックなことは忘れているとしても、都合の悪いことは覚えているという中途半端なことになる。都合が悪くなった理由が、そのショックなことであるとすれば、この記憶は中途半端になっていることだる。
「どうして、都合が悪いことが発生したのか?」
作品名:悪魔のサナトリウム 作家名:森本晃次