悪魔のサナトリウム
という印象が一番強く、そこから先に進むのを思わず躊躇っている自分に気が付いたが、そのままいると今度は、足に根が生えてしまうような気がして、歩かないわけにはいかない気がしたのだ。
廊下を歩く音は、湿気を帯びた空気とは違い、床を蹴る音が、かなりの高音で、乾いた空気を思わせた。
――一体、どっちが本当なんだろう?
という思いが強く、床を見ると、濡れているのを感じたので、やはり湿気はかなりのものだと思わせたのだ。
これほども靴音が残像を残すかのように響いているにも関わらず、誰も出てくる様子はなかった。あたりをキョロキョロと見渡していると、自分が思ったよりも進んできたのを感じた。
そして、ある場所まで来ると、足元が急に緩くなったかと想うと、
「ギィーっ」
という音がしたかと思うのが早いか、その一つ先の扉が開くのを感じた。
「どなた様ですか?」
と出てきた人は、顔を見ると、まだ若い雰囲気があったが、髪の毛はほとんど真っ白になっていて、背筋も若干曲がっているかのように思え、思わず見下ろしてしまっているのに気付いた。
男は、研究員らしく白衣を着ていて、その下にはネクタイが結ばれていて、思わず、
「博士」
と言ってしまいそうに思うのだった。
「ああ、すみません。お騒がせをしまして、実はこういうものです」
と言って、警察手帳を見せた。
「警察の方が、何かご用かな?」
と、聞かれたので、
「この先で、殺人事件があったので、その聞き込みにやってきました」
と刑事は言った。
この建物の雰囲気と目の前の研究員の雰囲気を見ると、まるで西洋の洋館で秘密の研究をしている博士を思わせた。ドラキュラか、フランケンシュタインでも出てきそうな雰囲気で、そういう意味では研究所というよりも、伯爵クラスの人が住んでいる西洋の城の雰囲気も醸し出されていたのだった。
もちろん、刑事の勝手な想像なのだが、このような世間離れしたような雰囲気の中では、何とか自分が意識できる環境を頭の中で作り上げ、そこに自分の正当性を当て嵌めようとする。この時も同じことをしていたようだ。
「今日は、他の研究員はほとんど朝まで研究していたので、帰った人が多いので、今残っている人は少ないので何とも言えないが、とりあえず私で分かることであれば、お応えすよう。中に入り給え」
と言われて、中に入ることにした。
扉のところに書かれている文字を見ると、
「袴田研究所」
と書かれていた。
ちょうどこの日朝からいるのは、袴田教授だけだったのだろうか?
「失礼します」
と言って、中に入ると。そこにもう一人若い研究員がいた。
助手であることはすぐに分かった。その人は紛れもなく安藤氏だったのだ。
「彼は私の助手の安藤君だ。まだ若いが私の助手として、なかなかいい役割をしてくれているよ」
というのだった。
「ところで先生はどんな研究をされているんですか?」
ととっかかりのつもりで聴いてみた。
「私は、神経科関係なのだが、記憶喪失や鬱病関係の治療について研究しているんだ」
と袴田教授は言った。
「記憶喪失や鬱病というと、結構我々の捜査でもかかわりがあることが多いので、実際に治療を施したという医者の方に遭ったりしたこともありましたが、実際にはどういう治療法を用いるのかまでは訊いたことがありませんでしたね」
と刑事がいうと、
「そうでしょうね。私も基本的には、そんなに話すことはないですよ、もちろん、聞かれたことには答えますが」
と言った。
「ちなみに、隣に病棟があるようですが、あそこは昔でいうサナトリウムのようなところなんでしょうか?」
と聞くと、
「ええ、そうですね。よくご存じですね」
と教授は言った。
「ええ、元々は結核病棟などのようなだったんですが、細菌では、精神科の病棟になったんですよ。まだ人が死なない分いいんでしょうけどね」
と言って、笑った。
あまりにも不気味な笑みだったので、刑事は顔をしかめてしまったが。それを見て。教授がまた笑みを浮かべたが、その笑みの性格が違ったものであることに気づかなかった。後で浮かべた笑みというのは。実は計算ずくの笑みであった。相手には気づかないだろうということを計算したかのような雰囲気に、横で見ていた安藤は、
――さすが、教授――
という顔をしていた。
それも刑事は気付くはずもない。刑事は、相手が神経科の医者であるということで、最初から余計なイメージを持っていた。それは、却って相手を違うイメージに誘うだけの力を持っていることに、相手は気付かない。印象操作というべきか、教授が声を掛けた瞬間から、そういうモードになっていたことを知る由もないだろう、
百戦錬磨の教授とすれば、それくらいのことは、挑戦的なのかも知れない。とにかく教授は相手を目の前にした瞬間に、自分をまず覆い隠そうとする。電光石火なので、教授が自分の気持ちを表に出していないことを誰も分かっていないだろう。
しかし、覆い隠した部分に、シールドが張られているようで、実はそのシールドに表から見える性格が貼りついていたのであった。
もちろん、そんなシールドがあるわけではない、そういう表現をすると一番分かりやすいということでのたとえ話ではあったが、教授本人としては、自分が行っている他人との関係を説明するとすれば、やはりシールドを使うかも知れない。
本当の教授とシールド上の顔との大きな違いは、
「シールドの自分は、相手によって態度や考え方を簡単に変えるが、本当の自分は決して相手に合わせることはしない」
ということであった。
相手によって態度や考え方を変えているように見せるのは、神経科で研究を重ねてきたことで身についた知識を、実践できるという意味で、それが教授の教授たるゆえんなのだろうと思うのであった。
そんな教授の正体を知っている人はいるだろうか?
それを安藤は前から考えていた。
安藤はずっと一緒にいることで、やっと細菌になって分かってきたのだが、もし分かる人がいるとすれば、それは、
「つかさだけではないか?」
と思うようになった。
今の自分が教授の考え方が分かるようになったことで、教授のことが分かる人まで気付くようになった。
それだけ教授という人物自体を理解することが、どれほど難しいことなのかということである。
教授を見ていると、たまに自分が教授のような考え方ができるようになるのではないかと思うようになっていた。だが、それも教授の印象操作で、急に、
「これは夢で見たことのような気がする」
と思わせるものであった。
そう思うことで、夢を見ると忘れてしまっていることがもったいなくて仕方がない。
「覚えている夢は、怖い夢ばかりなのに」
と思っていたのに、教授と一緒にいるようになってから、
「怖い夢以外も覚えて居られるような気がするんだけど、どうしても、悪いことしか覚えられない」
と感じたのだが、それは逆に、
「教授と一緒にいるようになってから、怖い夢しか実際に見ていないのかも知れない」
という思いもあったのだ。