悪魔のサナトリウム
この違和感が何なのかを考えていたが、最初は分からなかった。だが、このタイムスリップでもしたかのような光景を見ていると、見たことがないはずの昔のイメージが頭によみがえってくるからなのか、この光景を見ながら、さっきまでいた住宅街を思い返してみた。
――何かが違うんだ――
と感じたが、
「そりゃあ、時代の字がった光景を頭に浮かべているのと実際に見ているのを比較すること自体、どこかナンセンスな気がするが、そういうナンセンスさではないのだ」
と感じた。
自分の中で目に飛び込んできた光景を、間違いや誤解のない感覚だと思うことで、現実の世界を思い起こしていることが薄く感じられるのだろうと思っていたのに、どちらも同じくらいの感覚が頭にあった。そう思うと、違和感がどこにあるのか、徐々に分かってきたのだ。
「明るさだ」
という直感があった。
明るさというのは、さっきまでいた場所で感じた明るさと、今見ているタイムスリップしたかのような光景である。さっきまでいた場所は、かなり暗かったのに比べて、今、目の前に広がっている光景は、雲一つない場所に、これでもかとばかりに降り注ぐ日の光を感じさせた。
確かに、今は朝の時間で時間の経過とともに、太陽が昇ってくるので、明かりの調度が違うのは当たり前のことだが、そういうことではないのだ。
さっきまでは薄雲が目立っていて、しかもマンションの乱立している中にいたという意識からか、窮屈なイメージがあったのだろう。こちらに来て、解放された気分になったとしてもそれは仕方のないことではあるが、だからと言って、こちらがまわりには見渡す限りの平原というわけではない。確かに雑木林の中から抜けてきて、少し広さのあるところであるのは間違いないが、両側からも、真正面からも雑木林が迫ってきている。その光景を見ると、圧迫感も否めないのだった。
それなのに、明るさが限りないというのは、雲一つないという理由と、目の前に広がっている光景を、想像や写真ではあるが、実際に見るのは初めてなのに、どこか懐かしさを感じ、その感じた思いが、明るさに結び付いているのだった。
この明るさは、自分の想像を正当化するという意味でも必要なものであり、これを否定することは目の前も否定するかのような感覚で、乱暴ではあるが、明るさを認めないわけにはいかないのだった。
刑事がまず雑木林から出てきて見えたのは、サナトリウムの方だった。サナトリウムで普通なら度肝を抜かれるのだろうが、彼はそんなことはなかった。さらに歩いていくうちに、研究所の姿が見えてきた。その姿も懐かしさがあり、ただ、自分の意識としては、その建物の中に人がいるというイメージのないものだった。
中に入れば廃墟なのに、表は人がいるのと変わりがない。それが、研究室へのイメージだった。
現在のマンションなどは、老朽化などを理由に取り壊しが決まれば、住民が全員退去してからすぐに解体を始めるので、人がいなくなってから放置される光景を見ることはなかった。更地にすれば、そこからは、新たな建物になったり、駐車場になったりと、その再利用は様々なのだろうが、空いた土地をそう簡単に放置しておくほど、実際の世の中はゆっくりと動いていないのだった。
戦後であったり、昭和の高度成長前では、廃墟などは、なかなか取り壊されることはなかったという。実際に昭和の終わり頃までは、戦時中の防空壕の跡を見ることが普通にできたというし、ある程度の年齢の人がいうには、
「昔は普通に空き地なんかいっぱいあったものだよ。公園のように整備されていないところがね。要するに、人が立ち退いたり、所有者がいない場所は、兵器で放置されていたので、空き地として子供の遊び場になっているところが多かったんだよ」
ということだった。
「確かに今では、空き地という言葉すら死後のようになっていますからね。そういえば、昔からのマンガで今も人気のあるものの中には、空き地が登場したりしますよね。公園のような、滑り台、砂場、ブランコのような遊具はまったくないんだけど、空き地の端の方に、土管が三つくらい重ねられている光景を見ることがあります」
というと、
「そうなんだよ。それが昭和の象徴とも言える光景の一つなんじゃないのかな?
今では土管なんて言葉もなかなか聞かないだろう?」
と言われて、
「ええ、そうですね。昭和のその頃と今とでは、まったく違う世界になっているんでしょうね」
というと、
「それはそうさ。それが時代の流れというものさ。だけどね。時代の流れはあっても、変わってはいけないものもたくさんあるんだよ。それを忘れないようにしてもらいたいものだね」
と言っていた。
それを訊いたのは、確か高校時代くらいのことだったので、今から二十年くらい前のことだろうか。もうその頃はすでに、時代が変わっていて、今とほぼ変わりない社会のような気がする。
もっとも、細かいところでのコンピューター系のものは進化しているだろうが、全体的な光景でそれほどの変化はなような気がしていた。
彼は、そんなことを思いながら、研究所に近づいていた。
やはり研究所は静寂に包まれていて、本当に中に誰かいるのかということが疑問に感じられるほどだった。
中に入ってみると、表が明るかっただけに、玄関を入った瞬間、まったく見えないほどの暗さに飛び込んだ気がした。その分、ひんやりとした冷気を感じ、まだ寒さの残る朝だったのに、描いていた汗が一気に引いていくのを感じた。
「汗なんか掻いていたんだ」
と感じた。
それに引いていく汗が、
「冷たい汗」
だったことを感じると、描いたとすれば、さっき雑木林を抜けてここに来るまでの間だった気がして仕方がなかった。
引いていく汗を感じていると、一気に体温が下がってくる気がして、体温が下がってくると、今度は身体にまとわりつく湿気を感じた。
さっきまであれだけ雲一つない明るさだと思っていたのに、まるで今にも雨が降り出してきそうな湿気を感じるというのはどういうことなのかと感じたのだ。
身体に湿気を感じると、本当に雨でも降り出したのではないかと思いながら、玄関を入ると、視界も戻ってきて、表も見えるようになってきた。
やはりさっきの雲一つないという関学がウソであるかのように、薄暗い感覚があった。今にも雨が降ってきそうな気がすることで、表を見ていたが、いつまでもそこにとどまっているわけにもいかない、さらに、正面を見ながら廊下は土足でいいのか、下駄箱も見つからないし、人の靴もまったくないただ、広いだけの玄関だった。
ただ、その玄関は、昔の公会堂を思わせるような玄関で、もっとも公会堂だと思えばそこまで広くないのは、やはり研究所だというイメージがあるからだろう。
研究所にはどれだけの人がいるのか分からないが、物音一つもない空間を恐ろしく感じた。それと同時に、これだけあけっぴろげな空間であるから、ちょっとした物音でもまわりに反響し、ドキッとさせられるのではないかと感じたのだ。
「薄気味悪いな」