悪魔のサナトリウム
「お姉さんは、よくこの病室を入り口の前に立って全体を見渡すようにしながら、懐かしいと言って、実に嬉しそうな顔をよくするのよ。まるで昭和という時代を知っているかのようだわね」
というのだった。
「まさかね。お姉さんの空っぽになったと思われる記憶の中には、実は誰か他の昭和の記憶が宿っていたりしてね」
などと言ってみると、
「そうかも知れないわね」
と、看護婦さんは否定するどころか、賛同してくれたのだった。
確かにこのサナトリウム側では、あまり人の意見を否定することはないようだ。否定してはいけないのではなく、否定する要素がそこにはないからだった。患者も看護婦も職員も、さらには見舞いや付き添いの人皆含めたところで、誰も人から否定されるような言い方をしているわけではないようだった。
――それが、このサナトリウムの特徴なんだわ――
と思わせた。
姉の見舞いにちょっとした付き添いを済ませて、看護婦さんとも話ができたことで、この日は充実した一日だと思った。先ほど感じたことを教授に話そうかと思ったが。残念ながら教授はその日、出張ですでに病院内にはいなかった。教授と話せなかったのは残念だったが、しょうがない。そのまままた銀杏並木を通って歩き始めた。
すでに散ってしまった銀杏だったが、風が吹くと寒さが沁みてくるのを思うと、
「もう冬なんだな」
と季節を感じさせてくれるようだった。
ある男の死
一人の男が殺された。場所はK大学サナトリウムからほど近い、銀杏並木の入り口になっているところである。バス停から少し行って、その角を曲がると小さいながらも長さとしては結構長い銀杏並木が続いていた。その銀杏が生えそろっている奥には臓器伊林があり、そこには、昔から誰も立ち入らない場所があったのだ。
そんな場所で犬の散歩をさせる老人も結構いて、その日はそのうちの一人がイヌの異常な鳴き声に気が付き雑木林に近づいてみると、そこには一人の男性が首を絞められて放置されていた。
老人は一瞬腰を抜かしそうになったが、すぐに気を取り戻して、警察に連絡した。時間的には朝の散歩の時間なので、まだ七時前くらいで、人通りもほとんどなかった。
少しして警察がやってきて、騒々しくも現場検証が行われた。現状はどう見ても他殺であり、首には凶器と思える手ぬぐいのようなものが巻きつけられている。取り調べの刑事が鑑識官と話をしていたが、
「死亡推定時刻はどれくらいですか?」
と訊かれて、
「昨夜遅くだと思います。日付が変わるか変わらないかくらいですかね?」
「殺害現場はここなんでしょうか?」
と聞かれた鑑識官は、
「何とも言えないですね。争った跡も表ですから、なかなか残っていても判別しにくいですからね。これが刺殺であれば、血液の量とかで判断もできるんですが、この状態で争った跡を判別するのは、ほとんど無理だと言っていいでしょうね」
と、答えた。
――なるほど、その通りだろうな――
と、刑事は思ったが、どちらにしても、深夜のこのあたりで、目撃者を探すなど、ほぼ無理だと思われた。
「このあたりには、防犯カメラなんかもないでしょうね」
と訊かれて、
「そうですね。少し見てみましたが、向こうのバス停の近くにはありそうですが、銀杏並木に曲がる道にはそのようなものはないようですね」
ということだった。
「ところで、この向こうにあるのは、病院か何かですか?」
と、刑事はサナトリウムの存在を知らないようだった。
「ええ、あそこは、昔は細菌研究所と、隔離病棟などのサナトリウムがあったんですが、今は精神科の研究を行っているところで、病室も精神科関係の患者がいるようですね」
という話だった。
刑事は、その場所に病院があるというのは分かっていたが、何か怪しげな建物だと感じていたので、以前から気にはしていたが、話題に触れることがなかったので、知らなかっただけだった。
「なるほど、建物が若干古い感じがしていたので、普通の外来病院ではないと思っていましたが、そういうことですか」
と、納得したようだった。
被害者は、見た目、まだ二十代後半くらいの男で、首を絞められた苦しさから、その顔には断末魔の表情が浮かんでいるが、目を瞑らせて、安らかにさせると、その原型となっている顔が、イケメン風に感じられたのだ。
被害者がイケメンというと、
「女との情事などによる恋愛関係の縺れか?」
と思わせた。
旦那のある女性との不倫の末であろうか。もしそうだとすれば、そこに、金銭が絡んでくるような気がした。相手が金を持っている奥さんというイメージが湧いてきたからである。
今までにもそのような男女関係の縺れというのは、山ほど見てきた。女性が奥さんである場合の不倫の清算として殺害まであるとすれば、そこに金銭の授受が絡んでいるというのは、十分に考えられることであり、捜査員とすれば、そこまで頭に入れておかなければいけないだけの案件であった。
そして気になるのは、銀杏並木の奥にある精神科の病院であった。まさかとは思うが、夜中に徘徊するような患者がいないとも言えない。夢遊病とまではいかないかも知れないが、少なくとも精神に疾患のある人が一人でもいれば、何が起こっても不思議はないと考えるのは、かなり乱暴ではあるが、無理もないことではないだろうか。
刑事はどうしても、そのことが気になり、まず聞き込みの最初になるであろう病院を徐々に気にし始めていたのだった。
その病院は、表から見ても他の病院とはかなり違っているのは一目で分かった。建物は古く、まるで戦争中の秘密研究所を思わせる外観で、入院施設も質素なものだった。よく見ると場所によっては、刑務所のような鉄格子が張られているものもあり、逃げ出せないようになっていた。
冒頭の庭はそれなりに広さを持っていたが、その広さは、表から見ているよりも、実際に中にいた方が広く感じるのではないかと思うほどであった。
庭から表は別に厳重な仕切りがあるわけではない。監獄のように高いコンクリ――との塀が張り巡らされていないところが、プリズンとの決定的な違いだった。
庭と表とでは普通に垣根が植えられているだけだった。それはさながら、昭和三十年代くらいまで見られたという舗装されていない道路を思わせた。
「あっ」
そう思って歩いてきたと足元を見ると、そこは舗装されていないところだった。
「今毒、こんなところが存在するんだ」
という思いが頭をよぎったが、それよりも、舗装されていない道路を歩いてきたのに、そこに違和感を抱かなかった自分を不思議に感じたのだ。
「それほど、この場所は舗装していない道路が普通に感じられるほど、レトロな光景を醸し出しているということであろうか?」
と感じたのである。
その感覚を完璧なものにしたのが、垣根だったのであろう。今はまったく見ることのできなくなった垣根というものを、こんなところで見ることになろうとは思ってもみなかった。ここから数百メートも行けば、現在の住宅街があり、普通にマンションも立ち並んでいる場所であり、不思議な違和感があった。