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ポイントとタイミング

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「たまたまいたから参加して、本来なら、そこまで嫌いでもない人を他の人がボロクソに言っているのを訊いて、他人事だと思いながらも、一緒になって言わなければ自分が無視されると思って、嫌であったが。しょうがないので、その会話に参加したという場合は、何もターゲットになった人を庇う必要などないだろう。
 問題は、自分がそういう井戸端会議が好きで、自分から離し始めたわけではないが、他の人が悪口を言っているのを訊いて、自分も一緒になって、面白がる感覚で、罪もないと思う罵詈雑言を一緒になって言っていたとすれば、どちらがわにつけばいいのかが、問題だ。
 もし、相手についてしまうと、明らかに井戸端会議をいつも繰り広げている連中を敵に回すことになりし、かといって、こちら側につくと、自分はそんなに悪気があったわけでもないのに、その人との関係は終わってしまい、他の人と同じように蔑んで見られてしまう。
 ただ、自分が井戸端会議を好きだという時点で、すでに罪悪感が自分の中から消えているのだ。そうでなければ、井戸端会議を好きだという感覚にはならないだろう。罪悪感がある仲で、一緒になってウワサをしていた人と距離を取るというのは、その時点で自分が罪であるということを認めるようなものだった。
 何といっても、ウワサをされていた人が、分かってくれるはずもない。確かに一緒になって面白がるようにウワサをしていたのだ。それも、楽しくてしょうがない状態なので、どんなことを口走ったのか覚えていないくらいだ。少々盛って話をしたとしても、無理もないことだと思う。
 そんなことを思っているくせに、赤石は井戸端会議に参加したことがない。自分が輪の中に入っていこうとすると、まわりは露骨に嫌な顔をして、それまで楽しそうに話をしたいた連中が、まるでクモの子を散らすかのように、皆その場からいなくなり、自分だけになってしまうのだ。
 それをどう解釈すればいいのか。
 普通に考えれば、当たり前のことなのだが、赤石は分からない。分からないという時点で、井戸端会議に参加する資格はないのだが、それが分からないのだ。
 昔から言われる「村八分」というような感じなのだろうか。
 確かに、近所の人とほとんど会話がない。一番の原因は、自分から挨拶などの声掛けが苦手というだけではなく。挨拶された時ですら。面倒くさそうに、とりあえず挨拶を返すという程度なのだ。
 そんな人に対して誰が普通に近所づき合愛をしてくれるというのか。こんな簡単なことですら、赤石は分かっていないのだった。
 さらに赤石は、子供が嫌いだった。
 マンションなどでの集団生活をしていると、どうしても、子供の奇声が聞こえてくるのは仕方のないことである。ただ、本当はそれを。
「仕方のないこと」
 として片づけるのはいかがなものか。
 ここだけは赤石の意見に賛成なのだが、
「子供がうるさくしているのに、母親はまるで無視じゃないか。声を大きくして話をしていれば、一言、
「うるさいわよ。もう少し静かに話なさい」
 と言えば素もことではないか。
 それが躾であり、まわりに気を遣うということを教えることになるはずなのに、当の本人はママ友との会話に夢中で、自分が自然と声が大きくなっているのが分かっていると、どうしても、自分おことを棚に上げて子供を叱るわけにはいかないのだろうが、
「この親にして、この子あり」
 というべきか、
「この子にして、この親あり」
 というべきなのか、非常識にもほどがあるというものだ。
 これこそ集団意識というものか、他の奥さん連中にも同じ後ろめたさがあるようで、お互いに傷の舐めあいをしているだけのようで、見ていて見苦しいし、気持ち悪い。
「子供がうるさいのは当たり前」
 などと言っている人もいるが、ただ躾ができていないだけということを、どうして分からないのだろう。実に困った話である。
 夕方になると、イライラしてくるのは、そんな子供の奇声が聞こえてくるからではないかと思っている人も少なくはないだろう。中には自分に子供がいて、
「自分の子供が奇声を挙げる分には仕方がないが、他の子供が奇声を挙げるのは嫌だ」
 と思っている人は、少なからずいるだろう。
 自分のことを棚に上げてと言われるのが嫌なので、苦笑いをするしかないのだが、井戸端会議で何人か集まっている奥さんなどの中には同じような感覚の人もいるかも知れない。
 輪の中に入らなければ、、自分が村八分にされるという感覚である。
 しかも、そんな井戸端会議というのは、いつの間にかメンバーが形成されていて、、いつの間にかリーダー格が決まってくる。それはきっと、その間隙を縫うのがうまい人がいるからなのではないだろうか。
 どんな人が上手なのかは分からないが、そう考えてみると、井戸端会議や、団地やマンションでの奥さん連中というのは、恐ろしいものがある。
 特に昭和の昔から、成人映画などのタイトルに、よく、
「団地妻」
 などという言葉で書かれているものが多い。
 実際にはどういう内容なのか、作品ごとにも違っているので、一概には言えないが、きっと団地に住んでいること、そして妻というポジションが、何か性的な物語を形成する土台を作り上げるのかも知れない。昭和と令和ではまた違うのだろうが、団地妻という言葉を訊いて、世の男性、特に中年以上の人たちは、淫靡な印象を受けるのは当然だと言えるだろう。
 そんな昭和の団地妻が淫靡な印象を受けるのと一緒で、井戸端会議も同じように流行っていた。刑事ドラマなどでは、決まって団地が出てくると、まるで枕詞のように、井戸端会議の情景が写し出されるのだった。
 そんな団地やマンションなどの集合住宅。特に今のマンションなどは、団地のように、家庭持ちがほとんどということはない。むしろ一人暮らしの人も結構いて、間取りの違いから、その区別があると言ってもいいだろう。
 このマンションは、二LDKが基本なので、夫婦に小さい子供がいる家庭から、一人くらいまでが基準だろう。一人暮らしでは少々広いという印象はあるが、子供のいる家庭では、子供が成長すると、もう一部屋ほしいということで、引っ越していくパターンも多いようだ。
 赤石はずっと独身で、お隣も、独身の一人暮らしだったので、ついつい、一人暮らしが多いマンションだという錯覚を受けてしまいそうだが、決してそういうことではなかった。
 その日は、隣が空室だということもあって、静かなのは分かったので、少しホッとした気がした。
 別に普段からうるさいわけではなかったが、壁一つ隔てたところに誰かがいると思うと、そこまで気になるわけではなかったが、実は気にしていたのかも知れないというのは、いなくなって感じたことだった。
 だから、その日は、久しぶりにゆっくりと眠れた気がしたが、何か夢を見たのか、うなされた気がして、夜中に何度か目を覚ました。
 当然隣りからは何も聞こえてこない。
「気のせいだろうな」
 という思いが頭にあった。
 目が覚めたのは、いないはずの隣の部屋から何かが聞こえてきたという感覚があったからだが、気のせいだったのだ。
作品名:ポイントとタイミング 作家名:森本晃次