ポイントとタイミング
と言いながら赤石は、朝食バイキングのタマゴ料理を思い出していた。
「すべてを送り出してしまうのであれば、カギは掛けなくてもいいので気が楽ですよね」
と赤石がいうと、
「ええ、私もカギは掛けません。翌日になってまた行くわけですからね。それい取られるものは何もないし」
という話であった。
そういう話をしていると、結構時間が経つのが早いもので、
「せっかくお隣同士になったのに、こんなに早い時期にお別れというのは、残念ですね」
と隣人がいうと、
「そうですね。本当にあっという間のことでしたわね」
と赤石はそう言って、何に落胆しているのか、思わずため息をついているような様子だった。
「ここのマンションは、どうしても皆さん、転勤族が多いので、なかなか仲良くなるということもないと思っていましたけど、赤石さんのような方がおられて、本当に良かったと思っています。他の住人の方も言い方が多いので、私もここを出ていくことに後ろ髪を引かれるおもいですよ」
と、半分は社交辞令だろうが、本心も混じっていないと言えない言葉であることも間違いのない事実だろう。
そう思うと、自分がこのマンションを出ていく時の気持ちはどんな気持ちだったのかを思い返すと、かなり微妙なものだったということは間違いないようだ。
社交辞令というものが、どういうものなのか、相手の女性には分かっている雰囲気はなかった。
どちらかというとまわりに流されるタイプで、
――何か騙されやすそうだな――
と感じた、
そういう意味でも、彼女がここからいなくなるのは、そう思わないわけにはいかなかったのだろう。
その一週間というのはあっという間に過ぎた。赤石は赤石でやらなければいけないことが多かったからだ。
「一種の下準備。これで大丈夫だ」
と思うようになったのは、お隣さんが引っ越すと言っていた二日前だった。
「ふぅ、何とか間に合った」
と、ホッと胸を撫でおろした赤石だった。
赤石という女、絶えず何かを計画し、実行に移していた。その効果が現れるまでには少し時間が掛かるのだが、それは準備期間が長いということで、しょうがないことだと思っていた。
そのくせ、頻繁に転勤があるので、もし彼女の考えていることを知っている人がいるとすれば、
「そんなに頻繁に引っ越しになるんじゃあ、腰を落ち着けて何かをするなんて不可能なんじゃない?」
というかも知れない、
だが、
「逃げるにはちょうどいい」
と言って、嘯く姿も想像できないわけでもなく、そのあたりがこの女のつかみどころがないというゆえんなのかも知れない。
この女の口から出る言葉は、どこからどこまでが本心なのか分からないというのが、ご近所さんの印象だった。
確かに、前にいた時に比べれば、格段に安心できる人になっていたが、それはあくまでも、
「前に比べれば」
というだけのことで、どこまでが本当なのか考えさせられてしまう。
例の隣の女性も似たようなことを感じていた。
そもそも気になっていたのが、彼女の次章年齢である。
「三十五歳って言ってるけど、どう見ても、四十歳は超えているという意識だった。自分はまだ三十代前半なので、未知の年齢に対してとやかく言える立場にないことは分かっているけど、それにしても、三十五歳はないわ」
と思っていたのだ。
それよりも何よりも、その見た目が気になるのだった。
「人は見た目で判断してはいけない」
とよく言われるが、実際にニュースなどで出てくる犯人というのには、それなりに人相や雰囲気に共通点があり、言葉では説明できないが、
「見るからに怪しい」
としか言えないような人物というのは、思ったよりもまわりにたくさんいたりする。
しかし、ほとんどの場合、その予想は当たっている。
「怪しい人は怪しいだけの理由となる雰囲気を持っているものなんだわ」
と感じさせるのだ。
引っ越し当日、マンションの扉には扉が閉まらないように段ボールを挟むことでストッパーの役目をさせていて、そのおかげで部屋の中が分かったが、大きな荷物をいくつか運び出した後のようで、いくつかの家具が無造作な場所に放置されているようで、そのおかげで、元々の部屋の広さが分かった気がしてきた。
「思っていたよりも狭いんだ」
というものであった。
確かに、家具も何もない部屋は実に狭く感じられるもので、奥を垣間見ると、引っ越し業者の人が二人一組で家具を運び出そうとしているところだった。
部屋の住人である彼女は、忙しく指示を出しているようで、普段の彼女からは想像できないほど生き生きして見えた。
――あんなに行動的だったんだ、意外だわ――
と感じた。
だが、自分の引っ越しの時の自分も同じようなもので、実際に開き直ると皆似たような行動や雰囲気になるのかも知れないと感じた。
まだ寒い中、男たちの臭いが充満している部屋は、吐き気がするほどの気持ち悪さがあったが、日頃から慣れているので、すぐにその感覚を思い出した。
「引っ越しって、結構大変なんだわ」
と思ったが、他人ごとだと思っているからだということに気づくと、どこかおかしな感覚になったものだ。
――あと少しで、何もなくなるんだ――
と思うと一抹の寂しさを感じたものだった。
赤石は、その部屋を後にして、一階に降りてみた。すると、その向こうからで何かヒソヒソとした声が聞こえてきたのを感じた。
「何だろう?」
と思って、少し聞き耳を立てた。
あまり近所のウワサには気にしないようにしようと思っていたのだが、その時は何やら胸騒ぎのようなものがあったのだ。
「奥さんも、そう思いました? やぱりでしょう?」
と少し低めの声のトーンで聞こえてきた。
ヒソヒソ声なので、いつもとりもトーンが低いのは当たり前だが、この時ほどヒソヒソ声が気持ち悪いと思ったことは、それまでにはなかった。
「あの人、見ていて気持ち悪いのよ」
と別の声が聞こえる。
もうそうなってくると、ほとんど自分のことを言われているのだという思いが強くなっていて、悪口を言われるのを覚悟の上で聴いていた。ここで耳を塞いで聞こえないようにしたところで、後になって何を言われていたのかが気になって、どうせ尋常ではいられないのだ。それならば、すべて分かってしまった方が、今後の対応を考えても気が楽だというものだ。
「あの目が私は嫌いだわ。目力があるわけではないのに、相手を見透かそうとしているのか、それとも上から目線っていうんですか? あの目で見られたら、ゾッとするのよ」
というと、今度は別の奥さんが。
「ええ、そうなの。あの目を見ると、私は何でも知っているのよって自信を持った目で見降ろされているかのように思うのがたまらないの」
考えてみれば、好き放題に言われている。
――私って、そんな風に思われているんだ――
と、何よりも、言われているのが自分だということに腹が立っていると思っていたが、これが他人のことだと、もっと腹が立つような気がした。
いや、腹が立つというよりも、胸糞が悪いと言った方がいいのか、とにかく、これほどヒソヒソ話で人の悪口を言っているということが醜いものかと思ったのだ。
作品名:ポイントとタイミング 作家名:森本晃次