ポイントとタイミング
だが、なぜかこの女は、地域で生き残っていた。生き残っていただけではなく、それなりの権威もあったのだ。どこにそんな権勢があるのか、誰かに聞いてもすでに分からない。そんな女が、この街からいなくなるのはいいことなのだろうが、不穏な空気が、この女のいなくなる前から充満していたのは、何人かが感じていた。それがどこから由来するものなのか分かるはずもなく、王様が去っていくという構図になっていたのだ。
だが、その女は三年後くらいに戻ってきた。一部の住民は警戒したが、前にいた頃のような横柄な態度は鳴りを潜めていたのだ。
さすがにあの体型は変わっているわけではないので、なかなか自分から動こうとはしなかったは。指示は的確で、指示者としての能力は備わっているようだった。
だから、それまで警戒していた人たちも、
「少しは変わったのかも?」
ということになる。
それに気を遣い始めたというか、近所づきあいも自分からするようになり、
「旅行に行ってきた」
と言っては、皆にお土産のおすそ分けなどを行うようになったのだ。
三年経ってみると、マンションの住民も結構入れ替わっていた。
自分が異動で転勤になったのと同じように、このマンションに住んでいる人のほとんどは、転勤族と言ってもよかったのだ。
この場所に長くいるという確証がある人は、もっといい物件にいくだろうし、オートロックのマンションを希望したりするだろう。ここは家賃も安く、オートロックということでもないので、本当に転勤族の人が多いのも不思議のないことだった。
マンションを出てから、戻ってくると、半分くらいは入れ替わっていた。知っている人の中には、お互いに苦手な人もいたのだが、そういう人は相手にしなければいいわけで、知らない人は彼女がかつてここにいっても、別に何も気にしないから、何ら問題があるわけでもない、そうして知らない相手に近づいていって、自分のコミュニケーソンアピールを行うことで、
「あの人、この三年間の間に、よくなったんじゃないかしら?」
と以前からいた人に思わせればいいのだった。
誰か一人にそう思わせればいい。なぜなら、基本的にはあまりいいイメージを持たれているわけではないだけに、皆自分と同じように悪いイメージを持っているはずだとそれぞれに思っていることだろう。しかし、そのうちの一人が、
「あの人、実はいい人だったのかも知れないわよ」
などと言い出せば、それまで何も考えずにただ、まえと変わりない人だと思っていた人も、
「あの人がそういうなら、そういう目で見てみようかしら?」
と考えるに違いない。
そう思ってしまうと、今までの凝り固まったイメージを一度払拭して、もう一度、一から作り直そうと考える人の方が多いような気がする。いわゆる加算法なのだが、そうなると過去の気になることもすべて消してしまうので、この人のような場合には都合がよかった。
もし、これを減算法にするなら、三年間というブランクは長すぎる。過去の素行を全体として、そこから今の状況で減算してしまうと、マイナスをさらにマイナスにしてしまいそうで、自分の中で理屈に合わない答えを出してしまいそうで、それが恐ろしかった。
基本、元々素行が悪かった人を見直すのであれば、加算法でなければいけないということは、周知のことではないだろうか。
すっかり戻ってきてから数か月の間に、まわりの知っている奥さんも見直すようになってきて、
「意外と気さくないい人だったのかも知れない。人は見かけで判断してはいけないということね」
と、自分自身で納得することになるだろう。
自分自身で納得したのだから、今度は相手を疑うには、それ相応の理由が必要となる。ある意味、彼女の信用は、皆から認められたという状況が、このマンション内では確立されることになる。それが、この女の狙いだったのだ。
最初の頃は、皆と分け隔てなく付き合っていた。グループの中で誰と仲がいいというような関係ではなく、輪の中の一人という関係性を自分から作っていたのだ。
それをまわりも理解している。
「あの人が分け隔て内付き合いをしているから、うまくいっているんだ」
とそれぞれに思っていたのだが、それを口にする人はいなかった。
だが、それがこのマンションの中の、本当に小さな穴であり、闇でもあった。それをこの女は巧みに利用したのだ。
皆、それぞれに仲がいいし、自分もその輪の中に入っているという安心から、余計なことをいう必要もなかった。誰も誰かの誹謗中傷や変なウワサを流すこともなく、気を遣いながら回っていたのだ。
その意識をそれぞれで、最初は共有するように持っていたが、それを口にしないことで、時間が経つにつれて、その感じ方が人によって微妙になってきた。
「誰も本当に何も言っていないのか。自分がそう思い込んでいるだけなのではないか?」
と、そんな風に思ってしまうと、ほんの小さな疑心暗鬼が生まれてくるのだった。
ここからが人それぞれなのだが、疑心暗鬼も一人で抱え込む人もいれば、誰かを仮想敵のように見立てて、おかしな妄想をする人もいる。妄想から始まる疑心暗鬼、そこに、この事件の根っこは存在しているのだ。
チンピラの死
その女、名前を赤石ゆうなという。年齢は三十五歳だというが、見た目は四十を超えているように思う。今はすっかり信用を取り戻したようなので誰も何も言わないが、昔いた人がこの話を訊いたら、
「年齢詐称もいいところだ」
というに決まっている。
赤石が戻ってきてから三か月ほどしてからのことであろうか。赤石の隣の部屋の住人が挨拶にきて、
「お知り合いになれて、まだ日が浅くて残念なのですが、今回転勤が決まりまして。今月末までにはお引越しをいたします。短い間でしたがお世話になりました」
という話だった。
隣に住んでいたのは、やはり女性の一人暮らしで、液体電話関係のショップ担当の営業とマーケティングを行っている主任クラスの人だという。
ケイタイのショップでは、それくらいのクラスの人は、それほ遠くに転勤させることはないが、少なくとも同じ県内であれば、結構頻繁に転勤というのもあるらしい。彼女もその一人で、赤石も三年前にいた時には、いなかった人だったのだ。
「どれくらいこちらにいたんですか?」
と聞くと、
「一年ちょっとくらいですかね。私は結構頻繁に転勤させられます」
と言って、ウンザリした顔で苦笑いをしていた。
「お引越しはいつ頃ですか?」
と訊かれると、
「一週間後になります。お昼前くらいから賑やかになるかも知れないので、その時はご了承ください」
ということであった。
「じゃあ、その日のうちに、新居に荷物を入れるというのは無理なのかしら?」
「ええ、そうですね。どこかで一泊して、翌日に掃除を軽くして、新居で荷物の受け入れをしようかと思います。
「じゃあ、ホテルにお泊りになるのね?」
「ええ、そうしようかと思っています。今までにも何度もしましたので」
「そうですか。私も何度も引っ越しをしているので同じようにホテルに泊まることが多いんです。最近では、それも引っ越しの一環としての楽しみになりました」
作品名:ポイントとタイミング 作家名:森本晃次