限りなくゼロに近い
「ええ、そうですね。だぶん、警察が来られても、少しの間は事情を訊くことはできないでしょうね」
と医者はいう。
「分かりました。私も警察からいろいろ聞かれるでしょうから、もう少しここにいますね。ちょっと様子だけ見てみていいですか?」
と紀一がいうと、
「ええ、どうぞ、ごらんになってください。集中治療室ですので、少し大げさではありますが、命には別条はないということですね」
と答えた。
あくまでも、
「命には別条がない」
ということを連呼しているようだが、それだけ生死の間の紙一重なところだったのかも知れない。
集中治療室を眺めてみると、両腕に点滴が刺さっている。口には人工呼吸器に繋がっている呼吸器がついていた。ベッドの枕元には仰々しい機会が置かれていて、看護師が二人で機械の数値を気にしてみていた。
――命に別状はないという話だけど、それはずっと見ていてという意味で、少しでも目を離すと予断を許さないという状況なのかも知れない――
と感じた。
確かに痛々しい姿ではあったが、あの様子であれば、意識が戻るまでには、あと少しはかかるだろうと思われた。
そうこうしていると、後ろから自分の名前を呼ぶ声を聞こえ振り向いてみると、そこに立っていたのは懐かしい顔だった。
「佐々木さんじゃないですか? どうしたんですか?」
とその声は、浅川刑事だった。
「ああ、浅川君。救急搬送の女性の件で来られたのかな?」
と聞くと、
「ええ、そうなんですが、よく分かりましたね」
というので、
「あの時に居合わせたのがこの私ということなんだよ」
と紀一がいうと、
「そうなんですね。佐々木さんとこういう形でお目にかかれるなんて、ちょっとビックリですね」
という浅川刑事に対して。
「いやいや、君も堂々たる先輩ぶりだよ」
と言って、となりに控えている桜井刑事に向かって会釈をした。
桜井刑事とは、それほど馴染みがあったわけではない。
実は佐々木紀一は、浅川刑事と桜井刑事の大先輩の警察官だったのだ。最終は警部にまで昇進していたが、浅川刑事が駆け出しの時には、一番目を掛けていたので、浅川刑事にとっては、警察官になれたのは、紀一のおかげだと思っていた。
浅川刑事は、紀一の顔を見てホッとした気分と懐かしさで満面の笑みを浮かべていたが、対照的に桜井刑事は表情を変えていなかった。
そんな桜井刑事を見ながら、紀一は、なるべく無視していた。しかし、叙情聴取しないわけにもいかず、
「佐々木さん、あなたが第一発見者と言ってもいいんですね?」
と少しきつめに聞いたが、浅川はそれを制することなく、二人を見守っていた。
「ええ、そうです。私が最近恒例の散歩コースがあの城内公園なので、ちょうど疲れたので座っていると、彼女が横のベンチに倒れ込むようになったです。尋常ではないと思ったので。声を掛けようかと思っていたところ、彼女は持参のペットボトルのミネラルウォーターと粉薬を取り出したんです。それを口に含んだところを苦しみ出したというわけです」
というと、
「そのクスリというのは市販の薬ですか?」
と訊かれたので、
「いいえ違います。どこかの処方箋薬局で調査委してもらったものだと思います。何かの持病化何かがあって、それ用に持っていたんでしょう」
「それをどういうクスリだと思いますか?」
「分かりませんが、考えられるのは、心臓病のクスリか、胃薬かと思ったのですが、でもよく考えるとそういう処方のクスリというと、錠剤ではないかと思ったんですよ。だから、どんな持病があったかというのは、見当もつきません」
と正直に答えた。
いくらベテラン刑事と言っても、クスリにそこまで詳しいわけではない。薬物を扱っている課であれば詳しいカモ知れないが、殺人に毒殺というのは、あまり聞くものではない、何しろ、入手が困難であり、それだけに足がつきやすいというのもあるだろう。
「薬に関しては、医者と鑑識に任せておけばいいだろう。気になるのは、その時の彼女の様子なんですが、何か気になることはなかったですか?」
と、浅川刑事は言った。
「そうですね。あっという間のことでもあったので、ピンとこなかったですね。それに正面ではなかったので、そんなにジロジロと見るわけにもいきませんからね」
と、紀一は言った。
「ただ、胃落ちが助かったのは、何をおいてもよかったことですよね」
と、桜井がいうと、
「ええ、そうだと思います。苦しみ始めた時は、一瞬アレルギーか何かじゃないかと思ったんです。これは私の勝手なイメージで恐縮なんですが、どうも青酸カリなどの毒ではないような気がしたんですよね」
と紀一がいうと、
「佐々木さん、それはどういうことですか?」
と、浅川刑事が訊いた。
「青酸カリなどだと、息苦しくなったりするものではないかと思うんです。でも被害者の苦しみ方は、痙攣しているような感じが強かったんですよ。だから、まるで泡でも吹いているのではないかと感じたほどだったんです」
と紀一がいうと、
「青酸カリだって、痙攣を起こしたりするんじゃないですか?」
と、桜井刑事が露骨に食って掛かったように言った。
「確かに桜井君のいう通りだけどね。さっきも言ったように、あくまでも私の主観に基づいたものだということだよ」
と紀一がいうと、
「警察官はそれではまずいんですよ」
と食って掛かっていた。
それにしても、桜井刑事がこんなに他の人に食って掛かることは珍しい。一体何を言いたいというのだろうか?
浅川は、桜井と紀一の因縁を知らない。どうやら二人にとってのプライバシーに関係していることのようだった。
だから、本当は紀一のことを庇ってあげたいのだが、もしそれをしてしまうと、紀一の立場的に気まずさを増幅するようで、どうすることもできずに、困っていたのだ。
今回も余計なことをいうわけにはいかない。黙って静観するしかなかったのだ。
毒の話をしていると、ちょうどそこに、今回の主治医の先生がやってきた。自分の研究室にきてほしいということだった。
三人はさっそく、研究室にお邪魔した。そこに先ほどの付き添い人である紀一がいたのを見て、少し線背尾が戸惑っているのを見たが。
「ああ、いいんです。この方は元警察官でもありますので、今回の通報者ということもあり、一緒にお話をお聞かせいただきたいと思います」
そう言って、浅川刑事は、紀一を先生に紹介した。