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限りなくゼロに近い

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 もちろん、根拠があるわけでもないのだが、思い出すのは、数十年前に保険の勧誘員の人が毎日のように回ってきて、時々置いていく、バイオリズムによる運勢の検査票のようなものだった。
「その人のバイオリズムには三種類の、「身体(生理状態)」、「感情」、「知性」の三種類があって、その三つが波のようなカーブ、いわゆる数学的にいえば、「サインカーブ」と呼ばれるものが微妙に絡み合ってものなんですよ。それぞれの周期には差があるのですが、そのために低調期と高調期の切り替わる時が、体調面で気を付けない時になるので、それを警告するという意味でこれをお渡ししているので、ご参考になさってください」
 と言って、バイオリズム表と、飴玉を置いていったものだった。
 バイオリズムというものは、提唱冴えた学説としては科学的な概念なのだろうが、統計学的に見て有意なデータとして見られないため、疑似科学と見られているというが、人に意識をさせる材料としては、十分であった。
 それだけ人間のリズムや体調を促すための資料が実際には存在していないということであるのだ。
 いつの間にか保険の人もあまりこなくなり、バイオリズムを見ることもなくなったので、体調を意識することもなくなったが、そのかわり、最近では散歩の時のこの発汗の時の官学がバイオリズム表の代わりのような気がしていたのだった、
 散歩していて、たまに身体が火照っているようば気がすることがある、身体に熱が籠ってしまい、汗は出ているのだが、完全に出きっていない時である。そんな時はベンチに座ると、すぐに身体の節々に痛みを感じ、
「これはちょっとまずいかな?」
 と、発熱を予感させることがった。
 少し眩暈も感じていた。ただ、大きな病気ではないことは分かっている、何と言っても、何十年も一緒に過ごしてきた身体である、誰よりも分かっているつもりだった。
「少し、休んでいれば、すぐによくなるさ」
 その根拠は頭痛がなかったことで分かっていた。
 時々、身体い違和感を感じると、そのすぐ後にお約束のように頭痛に見舞われることが多かった。その頭痛の影響は、元々は飛蚊症の状態から起こさせることが多い。
 歩いていて、眩暈ではなく、急に目の焦点が合わなくなることがある。見えているのに、そこに何かモザイクのようなものが掛かってしまっているかのようであり、見えているはずのものが見えないと、ムキになってさらに見ようとする。
 その時点では頭痛という意識はまったくない。見えないまでも、見ようと努力していると、目が慣れてくるからなのか、何とか見えてくるような気がしてくる。
 その時に特記すべきことは、肩こりが激しいということであった。型が上がらないほどに子ってしまっていて、変に捻ると、肩の筋肉が攣ってしまうのではないかと思うほどになってしまっていることが多かった。
 飛蚊症で目が見えていない時間というのはそれほど長いものではない。十分もすれば、そんな見えない時期があったことがまるでウソのように、綺麗に見えるようになっていた。しかし、それで治ったわけではなく、その状況は頭痛へと変じてしまうのであった。
 最初、こんな状態に陥った時は、自分の身体が壊れてしまったのではないかとさえ思ったほどだった。
 急に襲ってくる頭痛は、結構きついもので、たとえていうなら、
「頭が虫歯になったかのような痛み」
 とでもいうべきであろうか。
 虫歯というのは、我慢しようとすれば何とか我慢ができるように思えてくることがあるが、それは、
「痛みが架空であり、本当はどこが痛いのかが分からない状態になっているのかということが虫歯の痛みだ」
 と思ったことがあるが、どこが痛いのか分からないということは、それだけ苦痛が身体全体に分散させないと、一か所に集中させているときついということの裏返しのようなのだが、実際には、ジワジワと痛んでいる場合、全体に拡散する方が、精神的にはきついものであった。
 だから虫歯の痛みを我慢する時は、無意識に身体のどこかに痛みを凝縮しようとする。そうすると、痛みが集まった部分を抑えようとして、別のことを考えようとして、今度は違う場所にその痛みを分断させようと試みる。
 そうなると、考え方が本末転倒になってしまう。何が正しいのか分からなくなり、意識がパニックを起こしてしまう。しかし、そのうちに痛みを忘れてしまうというのが、虫歯の痛みのスパイラルだった。
 飛蚊症からの痛みは、一種の偏頭痛なのだろう。別のところが原因で、普段の頭痛の原因とはまったく違ったところからの要因には、痛みが尋常ではないことで、虫歯と同じようにどこが痛いのかがハッキリとしないという特徴があるのだった。
 飛蚊症での頭痛は、肩こりが証明するように身体の硬直からくる場合がある、たまに足が攣ってしまうこともあり、頭痛が収まってからも、油断できなかったりする。
 だが、足が攣る攣らないという問題以前に、この頭痛と一緒に襲ってくる弊害は、嘔吐であった。
 頭痛を抑えようと必死になって、痛みと戦っていると、眩暈や嘔吐が襲ってくるのだ。しかも、頭痛を患わっている間に襲ってくるものだから、どうしようもない。痛みを我慢していると、吐き気が強くなる。それは、頭痛から意識を他に逸らそうとすると、急激な吐き気の引力に吸い込まれてしまうからだった。
 この感覚が起こり始めたのは、実は最近のことではない。最初に感じたのは、二十年前、そうちょうど女房との離婚問題が持ち上がった頃のことだった。
 離婚など、今ではさほど辛いことではないなどと言われ、バツイチくらいは当たり前などという発想があるが、以前はそこまではなかった。
「離婚には結婚の何倍ものエネルギーが必要だ」
 ということをよく聞いた。
 最初は、何を言っているのかよく分からなかったが、実際に離婚という渦中に自分がまきこまれると、結構、自分でも想像もしていなかっただるさに見舞われた。
 それは、最初から離婚を他人事のように感じ、
「離婚することは、まるで自分が悪いことでも何でもないことだ」
 という意識にさせるのである。
 確かにそう考えると気は楽であったが、これまで右肩上がりの人生が一変してしまうことを怖がっているだけであることを、その時の自分は意識していたのだ。だが、離婚が成立してしまうと、脱力感しかなかった。ホッとした気持ちと、他人事の感覚でいれば、耐えることができたという思いが交錯していた。
 そんなことを思い出しながら、漠然と公園を眺めていると、横のベンチに一人の女の子が疲れて倒れ込むようにしているのが見えた。
 彼女はジャージを着ていて、首からはタオルを巻きつけている。その姿は、ジョギングでもしてきたかのように見えたが、昼のこの時間のジョギング、しかも、若い女の子というのも少し変な気がした。
 雰囲気を見るとまだ二十歳過ぎくらいであろうか。息をゼイゼイと吐いていたが、それでも何とか呼吸を整えようとしているその姿は、本当にきつそうで見ていられないほどであった。
 すると、少し落ち着いてきたのか、彼女はその脇にトートバッグを置いていて、そこからペットボトルと、クスリの袋を取り出したようだった。
作品名:限りなくゼロに近い 作家名:森本晃次