限りなくゼロに近い
新人の桜井刑事の逃げられてしまった彼女がその後、犯人を殺して、自分も自殺をするという最悪の結果になってしまったことで、佐々木警部は、どれほど桜井刑事を叱責するかと思われたが、意外なことに佐々木警部は桜井刑事を罵倒することはなかった。
「結果はもう出てしまったんだ。いまさら何を言っても同じだ」
という思いであったが、浅川刑事はさらに先読みをしてしまった。
「見込みのある人には一杯説教もすれば、皮肉もいうが、見込みがないとなれば、何も言わなくなる。つまりは、言われているうちが花だということなんだろうな」
という考えから、
「佐々木警部は桜井刑事を見限ったのだ」
と考えるようになったのだった。
だから何も言えないという思いと、そんな見限られたと思う桜井刑事に対し、ある意味一目置いていた浅川刑事は、
「自分が桜井刑事を一人前にするんだ」
という気持ちをさらに強くなったのだ。
元々、浅川刑事が桜井刑事の教育係のようなものであるのは、暗黙の了解だった。捜査の上でのコンビがずっと続いているのがその証拠ではないだろうか。
佐々木警部の思惑とは別のところで、浅川刑事が助け舟を出していたのは、桜井刑事にとって幸運だったのだ。
今でこそ、立派な刑事になっている桜井だったが、新人の頃はどうしようもないようなところがあったという逸話のような事件だった。
その事件は、しばらく桜井の中でトラウマの意識があったが、すでにトラウマではなくなっていたと思っていたのに、佐々木警部の顔を見て思い出すことになってしまった。
桜井刑事が必要以上に佐々木警部を睨んだり、訝しいがるのは、佐々木警部を憎んでいるというよりも、自分にトラウマを思い出させたことに苛立ちを覚えたからだった。
しかも、すでに佐々木警部はその時のことをまったくと言って覚えていない。自分だけが変なわだかまりを持って、事件へのトラウマと、佐々木警部に対してのコンプレックスのようなものを持ってしまったことに、苛立ちを覚えたのだった。
「悪いのは俺だって、自分でも分かっているんだ。でも、もうどうしようもないではないか」
という意識があったはずなのに、思い出してしまうと、ここまで自分が嫌な気分になるなどと思ってもいなかった。
一体どうすればいいのか、その方向性もハッキリしていないのは、ずっと頭の中で考えているつもりでも、心の中のどこかで、
「どうせ、無理なんだ」
という意識が頭の中に徐々に広がっていくのが分かったからだった。
浅川刑事も、まさかここまで桜井刑事が根に持っているなどと思ってもいなかった。
浅川刑事としては、根に持っているというところまでしか理解できていないことが、何もアドバイスできないことだと思っている。もう一歩踏み込めば、二人の関係を修復できる一歩手前くらいまではいけると思っているが、そこには大きな結界があり、さらに、もし修復一歩手前まで行けたとしても、その一歩手前にも結界が存在しているような気がして、二重の結界に悩まされることで、結局二人の歩み寄りは、どちらかからというわけではなく、お互いに歩み寄りを必要とするのだろうと、浅川刑事は感じていた。
そんなことは、それぞれ、考えていることがどこまで歩み寄れるかであるが、外見上は、とても歩み寄れる関係ではないことは一目瞭然だった。
そんな桜井刑事と、佐々木警部の関係の板挟みになっている浅川刑事が一番の被害者なのかも知れない。
そんな三人三様の中で、それぞれの思惑を別にして、今回の事件が新たな局面を迎えた。
実は、今回の被害者が由衣だったということを一番ショックに感じているのが、紀一だった。
彼が彼女をある意味事件に引き込んだという意識があるからなのか、自己嫌悪に陥ってしまっているようだ。
「俺が彼女を警察に連れてきたりしなければ、彼女は死なずに済んだのでは?」
と思った。
もちろん、彼女はあいりのことを心配して探していたので、紀一が気にしなくても、彼女がこの事件に足を突っ込むことは最初から分かっていたことであろう。だから、紀一が責任を感じる必要など毛頭ない。だが、紀一は自分が責任を感じているということに不思議な感覚を持っていた。
この感覚、実は桜井刑事が新人の時のあの事件の、桜井刑事の感覚と同じであった。
まわりからは、
「お前が悪いわけではない。そこまで気にするな」
と言われても、言われれば言われるほど意識してしまう。
そんなジレンマに陥っていたのも、桜井刑事が若いからだという思いを本人は抱いていたのだが、実はそうではなかった。
それも、佐々木警部としては分かっていたはずなのだ。それなのに、佐々木啓二は擁護するどころか罵声を浴びせた。
本当は罵声を浴びる方が気は楽だったのかも知れない。まわりが下手に気を遣ってしまうと、本人はまるで真綿で首を絞められるかのような感覚になり、空気穴を開けた棺桶に入れられ、そのまま生き埋めにでもされたかのような恐ろしい気持ちになっていたと言ってもいいだろう。
佐々木警部は、まさかそこまで考えて罵声を浴びせていたわけではなかったが、却って精神的には助けることになったのだろう。
だが、今回の紀一にはそんな感覚はない、誰も自分に罵声を浴びせる人がいるわけではない。何しろすでに民間人になっているのだ。誰がそんなことをできるというのか、
自分で籠りに籠って、誰も助けてくれない状況がどれほど辛いか、いまさらながらに感じていた。
「俺は刑事をやっている時に、感じたこともあったはずなのに」
と思ったが、すでにその感覚は忘れていた。
警察官だった時のことの意識はほどんどなくなっていて、
「俺って警察官だったんだよな?」
と感じさせるほど、定年後の二年という月日は長いようだった。
警察官晩年の日々の早かったこと。
「あと二年で定年対sh句だ」
と思ってから、退職まではあっという間だった。
佐々木警部は定年退職を意外と待ちわびていた。
警察の仕事が嫌だったわけではなく、定年退職を意識してからは、警察の仕事はすでに過去のものとなり、頭の中は定年後にどうしようかということばかりを考えていたのだ。
それでも事件が起これば、機敏に動き、年を感じさせないオニ警部ぶりは、健在であった。その思いは、今まで培った警察官魂の集大成のような気がして、それが意識をしなくても、勝手にその魂が躍動するところまで極めていると言っても過言ではないのだろう。
定年退職になると、他の人がよくいう。
「毎日何をしていいのかまったく分からない」
であったり、
「家族から、ずっと家にいることを疎まれる」
などといった、悲惨な話を訊くが、そんなことはなかった。
それにしても、ずっと今まで仕事をまっとうしてきて、一種の、
「大往生」
なのに、その後ともなると、どうしてここまで邪魔者扱いされなければいけないのか、それこそ掌返しとはこのことである。
「ねえ、どこか表にでも行ってくればいいじゃない。散歩くらいはできるでしょう」
と言って、詠めや娘から家から追っ払われることもあった。
「はい、分かりましたよ」