小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

限りなくゼロに近い

INDEX|17ページ/29ページ|

次のページ前のページ
 

 朝食が終わって、いつものように散歩に出ることは最初からの計画であるが、その散歩の目的は、今回はこの間、あいりが倒れたのを見たあの城内公園のベンチであることは自覚している。
 だからと言っていきなりその場所に赴こうという気はしなかった。
 行ったからと言って、何かがあるというわけでもない。それに昨日と時間が違うのだから、、由衣に遭えるという可能性は低いと思った。
 確かに連絡先は聞いていたが、どうせ出会うのであれば、偶然出会いたいという思いがあった
 どうしても、会って確認したいことがあるなどのれっきとした理由がなければ、自分からの連絡をしないようにしようと、思ったからだ。
 この日は、家を出たのは、十時頃であった。いつもよりも、二、三時間早いであろうか。朝の通勤通学時間も過ぎていいるので、歩く人もまばらであった。いつものように頭から差してくる日差しと違い、進んで行く方に日差しがあることで、一層の眩しさを感じながら歩いていると、普段とは違った汗が身体に滲んでいるのを感じていた。
 前を見ながら歩いていると、いつもよりも疲れが早く襲ってくるのを感じた。
 普段であれば、早朝バイトがあるので、一度ひと汗を掻いている。だから身体の切れがスムーズなのだろうが、今日はまだ汗を掻くのが最初ということもあり、まだまだ身体には切れが感じられなかった。
 そう思うと、歩いていても日差しに負けてしまいそうに思えるくらいで、ゆっくり歩きながら、どこを目指しているのかが、自分でもよく分かっていないような気がしてきた。
 幸いなことに、ここ数日天気がいい。総長は放射冷却の影響で、霜が降りて居たり、下手をすれば、道が凍結しているところも日陰ではあるくらいであったが、十時を過ぎるとすっかりそんな感覚はなくなっていた。
 通勤時間の間に、すっかり朝の時間というのは過ぎていて、今は昼間の準備をしているかのように、世界が感じられていた。
 お濠の近くを歩いていると、水面が小刻みに揺れている。波紋が実に短く幾重にも重なった年輪であるかのようである。天気図でよく見る等圧線にも感じられた。
「等圧線なら、あんなに密集していると、嵐の予感がしてくるのに、波紋だったら、静けさの象徴なんだよな」
 と、紀一は考えた。
 波紋が蜜であるということは、それだけ無風であるということを示している。風邪もないのに、波紋があるというのもおかしなものだが、逆に波紋がない水面を見ることの方が稀なくらいだ。
 そう思うと、波紋が無限の等圧線を作り出している感覚は、
「限りなくゼロには近いが、絶対にゼロになることのない状態」
 と言えるのではないだろうか。
 数学的にも、最初がゼロか。ゼロで割ったりしない限り、どんなに小さくなったとしても、ゼロにはならないのだというものではないか。
 ゼロというのがいかに数学界では、魅力のある、そして不気味な数字なのかというのは、無限大と同じ感覚で考えてもいいのではないかと思う。
 波紋一つを見ているだけで、ここまで集中して考えることのできる自分を、ある意味尊敬している紀一であった。
「いつも何かを考えている」
 あるいは、
「気が付けば何かを考えている」
 という感覚は。いかに発想を広げて豊かにできるかということを示しているのではないだろうか。
 そう思うと、歩いていう時も、夢を見ている時も、何かを考えているのに変わりはない。ただ、その土台となる世界が違うだけであって、夢の中で考えている何かは、果たして夢の中だけのことだと言えるのだろうか。それを考えるキーとしては、
「目が覚めるにしたがって、本当に夢というのは忘れられていくものなのだろうか?」
 という謎かけにかかっているのではないかと、紀一は考えた。
 波紋は、溝は作っているが海の高波のように、立体的なものではない。まるで、水面に線を引いただけのように感じるのは、それだけ幾何学的な正確な間隔を取って存在しているものだと言えるからではないかと思うのだ。
 小石を水面に投げると、堕ちた場所から次第に波紋は広がっていく。規則的な幾何学模様を見せつけるかのように広がっていくのだ。
 それは、まるで自分たちに、
「これでもか」
 という思いとともに、見せつけているかのように思える。
 歩いていると、無風に思われていたのに、それでも、何かの美風を感じる。汗が心地いいくらいに出てくると、風がなくても汗が風邪を受けているような錯覚を感じることがある。それがまさしく、この時だったのだ。
 昨日の城内公園のベンチに行ってみると、そこには誰もいなかった。午後に比べても人は少なく、観光客もいない時間帯だった。
「まあ、いないわな」
 と思って、とりあえずベンチに座り、いつも見ている光景を見ていると、おとといのことがなんだったのかと思わざる負えない。
 ゆっくりしようかと思ったが、ここまで人がいないと、一人でいることが寒くて仕方がない気分になってきた。
 人がいれば、寒かろうが、風が冷たかろうがさほど気にならないが、人がいない寂しさがこんなにも肌をさすものだったとは思ってもいなかった。
 そもそも、一人で孤独なことが嫌いなたちではない。逆に人と一緒にいることの方が煩わしいと思うほどだった。
 警察官の時は、仕事なので仕方なく人とのかかわりを持っていたが、本当は一人でいるのが好きなタイプ。気分的には事件が解決すれば、数日間はゆっきりと家に引きこもっているか、それとも、どこか鄙びた温泉宿にでも赴いていたいくらいであった。
 朝は日が高くなる前まで眠っていて、気が付けば、用意してある長足を摂り、朝風呂を嗜む。他の人であれば、長足の前に朝風呂としゃれこむのだろうが、紀一の場合は、食事をしてから風呂に入るということが日課になっていた。
 それは子供の頃からのことで、むしろ子供の頃から身についた習慣が、身に染みていると言っていいだろう。
 定年退職してから、最近では何か趣味はないかと思って探しに、市役所のコミュニティセンターを訪れてみると、市民サークルのようなものが結構あった。絵画や詩吟のような芸術から、ボランティア活動、ゲートボールなどのスポーツ振興などもあった。アルバイトで駅や公園の清掃はしているので、ボランティア活動は最初から眼中にはなく、いまさら身体を動かす趣味よりも、何か芸術的なものがいいと思い始めたのが、俳句だった。
 俳句の先生は、近くの大学の名誉教授で、俳句の世界では、時々教育テレビにも出てくるほどの先生であった。
「地元に根差した活動をしていきたい」
 と常々先生は言っていて。テレビに出るような有名な名誉教授ではあるが、普通に知らない人が見れば、ただのおじさんというだけのものだった。
「友達感覚で教えられればいいですよね」
 と言っていて、先生の友達間か悪は普段から一緒であり、サークルが終わってから、先生はめなーを連れて、よく呑みに行ったりしていた。
 紀一も誘われたことがあったが、
「あまり酒を呑める方ではないので」
 というと、
「じゃあ、無理には誘いませんが、三課されたい時には遠慮なく言ってくださいね」
 と言ってくれた。
作品名:限りなくゼロに近い 作家名:森本晃次