永遠のスパイラル
だから、本当なら、自信過剰を決して悪いことだと思っておらず、何かの失敗が自信過剰な人にあれば、失敗の原因をすべて自信過剰に集中して解釈しようとしていることを、
「そんな考えをしてはいけない」
と自分に言い聞かせてきたのではないだろうか。
「元の自分に戻りたくない」
という思いは、一歩進んで、
「やり直したい」
と思うことができないことから、自ら作ってしまった結界に気付いていないことを示しているのだ。
だが、やり直したいという考えを持ったとしても、それだけではmだ不十分である。そこまでの考えを持つことができても、実際には決してやり直すことはできないのだ。最初にやり直すという意識が持てないのは、無意識に、
「やり直すことはできない」
と感じているからだったが、一度やり直そうと思い立ってから、実際にやり直しを図ってから、
「やはり、やり直すことはできない」
と感じたこの時の感情は、まったく違ったものだった。
意識していなかったことを意識するようになり、実際に行動に移したその瞬間、以前に同じことを感じたのだということは意識から消えてしまう。まるで結界を抜けてきたようなもので、思い出すことはできないのだ。
そんな感情をいかに桜井刑事が引き出すことができるかというのが、この場合の問題ではないだろうか。
桜井刑事にも似たような経験があった。経験というよりも、
『潜在意識が体験している状況」
というべきであろうか?
さすがに冤罪事件を引き起こしたりはしなかったが、自分がかつて好きだった女性が事件に関わってきたことで、捜査を見誤ったことがあったのを覚えていることだ。相手が記憶を失っていて、自分のことを覚えていない。その意識が強かったことで、愛情なのか道場なのか、自分でも分からなくなってしまっていた。事件の方は、そんな桜井刑事の思惑とは裏腹に、浅川刑事の推理で解決されたが、果たしてその時の桜井刑事の後悔が誰に分かっているだろうか。
――そんな感情は誰にも知られたくない――
という反面、知られないだけに自分の思いが内にこもってしまうことで、まわりとの結界ができてしまう。
そのことを桜井は自覚していた。両方の面を抱えることでジレンマに襲われる気持ちは、
「前にも後ろにも進めない吊り橋の上」
という感情だったのだ。
両側が断崖絶壁の谷底で、そこに気の吊り橋が掛かっているだけという、超がつくくらいの危険な場所を渡っている最中、ちょうどその真ん中で強風にあおられ、前にも後ろにも進めなくなる状況である。
その時に考えることは、まず、戻ろうという思いであった。
それは咄嗟の思いであり、
「もし、通り過ぎることができたとしても、もう一度ここを通らないと帰ってこれない」
という思いである。
だが、それは先に進むことでそこにあるものを考えない、あくまでも消極的な考え方だ。現地に行ってしまえば、帰る方法は他にもあるかも知れない。今この吊り橋を通っていこうと考えたのは、
「吊り橋で行くことができる」
という方法を知ったことで、それ以外をまったく見なかったからだ。
「まさかこんな危険なところだったなんて」
というのを知っていれば、もう少し調べていたのにと考えるかも知れない。
後の問題は、目的地に行くことが自分にとって、どういう意味を持っているかということであった。
何かの意図があって、例えば誰かに逢うためだったり、必要不可欠なものを取りに行ったりという、どうしてもいかなければいけない場所でさえなければ、後戻りが最優先となるだろう。
まず最初に頭に浮かんだことが自分の本当の意志だと思うのは当然のことではないだろうか。もちろん、性格的なものも強いだろう。
もっとも桜井刑事は、もっと行動的な考え方をする性格だったはずである。最初から防御を考えるなど、今までの自分からは考えられないことだったはずだ。
それなのに、どうして逃げることを最優先にしたのかというのを思い起こすと、
「死ぬことに対して、恐ろしいと思ったんだ」
という素直な気持ちになった。
刑事として、捜査に当たっている間、死ぬことが怖いという発想を抱いたことは正直ないと思っていた。死を考えてしまうと、いくら怖いもの知らずでも、いざという時に判断が鈍ってしまうであろうことを恐れたのだ。
それはそれで間違いではない。
しかし、毎回、捜査の時に死を恐れないという気持ちでいると、そのうちに死というものに対して、感覚が鈍ってきた。死というものを怖いと思わなくなってきていると自分で思っていたのだ。
だが、それは言い訳であって、考えないようになったのは、感覚がマヒしたことを自分で感じたくなかったからだ、もし、マヒしたのだと思ってしまうと、また市について考えてしまうと思ったのだが。実際には違う。死について感覚がマヒしたのは、死を恐れなくなったわけではなく、正面から考えようとしなくなっただけで、その裏返しが、死について真剣に考えるのが怖いという思いだった。
「死を恐れないのではなく、死について考えるのが怖いと思うのか、それとも、死を怖いと考えるのを恐れているのか、どちらなのか?」
と思うのだった。
考えれば考えるほど、堂々巡りを繰り返してしまいそうなので、どこかで考えるのを辞めてしまう。それがまたしても、マヒに繋がっているのであって。もっといえば、
「感覚がマヒしたと思わなければ、堂々巡りに陥ってしまったことで、何もできなくなってしまう」
という思いに駆られるのであろう。
このような状態から、鬱病を発症する人もいるのではないか。そういう人は自分の感覚をマヒさせることができず、つり橋の前にも後ろにも進めず、立ち止まってしまうからであろう。
吊り橋のちょうど真ん中という場面で、前を見るのと、後ろを見るのとでは、果たしてどっちが遠く感じるだろうか?
身体は前を向いている状態から、恐ろしくて動かすことはできない。首だけを動かすことになると、そこから先よりも、今まで来た道の方が、果てしないと思えるほど遠くに感じられるに違いない。もし、後になあって、それが錯覚だと分かったとしても、最初に見た光景が頭から離れられずに、結局、前にも後ろにも進めず、その場に座り込んでしまうに違いない。
「人間というものは、最初に度胸を持つことができなければ、その後どんなに開き直ったとしても、最初の感情に立ち向かうことはできないのだ」
と言えるのではないだろうか。
断崖絶壁の吊り橋の感覚は、普段から感じているものではなく、きっと夢に出てきたことであろう。
一度感じた思いを、夢が形にしたのが、断崖絶壁の吊り橋の上で、それが潜在意識のなせる業だったに違いない。
桜井刑事は今まで鬱病らしきものに掛かったという意識はない。しかし、断崖絶壁の吊り橋を意識している。
――ひょっとすれば、鬱病にならない代わりに、自分の中で吊り橋を意識させるために、夢が潜在意識を表現したのかも知れない――
と感じた。
それは、鬱病にならなかった自分の感情の辻褄を合わせるためのものであり、何かの拍子にふと思い出すものでなんおではないかと感じさせるものだった。