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因果応報の記憶喪失

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「ああ、これは被害者の胸に刺さっていた凶器なんですよ。一度ご確認いただけますか?」
 と桜井刑事がいうので、
「あ、はい」
 と答えると、桜井刑事はタオルを持とうと手を動かしていたが、
「このナイフは、俯せになっていたおことだから、まだご覧になっていまうはずですよね?」
「ええ、首筋を触って、死んでいるのが分かったので、むやみに動かしてはいけないと思ったんです」
「そうですか、それは賢明でしたね。我々も助かりましたよ。変に指紋がついたりすると、変な疑いを持ったりしてしまいますからね。お互いに気まずくもなってしまって、このようないろいろな情報も頂けなかったかも知れませんしね」
 と言って、桜井刑事は笑った。
 これから殺害現場をもう一度見ようとするのに笑うというのは不謹慎にも感じるが、少しでも緊張をほぐしてくれようとしているのだと贔屓目に見てしまった。
 弘子は桜井が手に持ったタオルから見え隠れしているナイフを凝視した。凝視したというか、一度目に入ってしまうと、目を切ることはできなくなってしまっていたのだ。
タオルが外され、全貌が確認できると、そのナイフを見るのが初めてであることが分かった。そこで完全に目を切ることができなかったことに嫌な予感を感じていたが、そんな予感というのは当たるもので、後から思えば、
「やっぱり」
 と感じたのだが、それは明らかに後の祭りだった。
 ナイフの刃の部分を見ていると、そこに光が反射し、弘子の目をついたのだ。
「わっ」
 と声を挙げて、顔を背けたが、時すでに遅しであった。
 一瞬目の前が真っ暗になったのを感じた。額が急に熱を持ったような気がして、頭がボーっとしてきた。これは、頭がボーっとしてくるという意識にさせることで、この後襲ってくる苦痛に耐えられるようにしようという、囁かなる抵抗だったのだろう。
 だが、襲ってきた恐怖を避けることはできず。一気に頭痛となって襲ってきたのだ。
「うう、痛い」
 と言って、その場にうずくまってしまった弘子は、
「大丈夫ですか? しっかりしてください」
 という声を遠くの方に聞きながら、目の前にシルエットのように浮かんだ桜井刑事の顔がだんだん大きくなっていき、まるで自分を襲う正体不明の男のように思えて、その恐怖を感じたまま、意識を失っていったのだ。
 気がついた時には、まったく違う場所に寝かされていた。簡易ではあるがベッドに寝かされているのを感じると、まわりの壁がやけに白く。まわり全体が城で着色されていることを感じていた。
「ここはどこなのかしら?」
 と軽く口にして、身体を起こそうとすると、身体が痺れて起き上がることができない。左腕の肘のあたりに痛みを感じた。針が刺さっているようで、よく見ると、自分は点滴を受けているのだった。
「そうだ。確か、光るものを見た気がした。光るもののせいで頭が痛くなって、それから黒い影が、大丈夫かと訊いていた」
 というところまでは覚えていた。
 だが、それ以前の自分がどうしていたのかが分からない。何か大きなショックがあったのは覚えているのだが、それが何だったのか、分からない。今の状態を見ていて想像できるのは。ここが病院であるということ、意識を失って、ここで点滴の治療を受けているということだけだった。ここがどこの病院なのかも想像はつかないが、会社から一番近いところであれば、K大学病院であるだろうと覆った。
 そう思うと、自分が朝出勤するところまでは思い出していた。どうやら記憶がないのはそこから先で、事務所にどうやって入ったかということもハッキリと思い出せるものではなかった。
――本当にどうしたというの?
 目の前にまるで髪の毛か、糸くずのようなものが見える。
――そうだ、飛蚊症のようなものかも知れない――
 と感じた。
 今までに飛蚊症のようなものを感じたことが何度かあった。本を見ていたり、何かに集中していると、急に目の焦点が合わないような気がしてくると、見ている字がまるで虫メガネでも見ているかのように、丸くなったその部分だけが大きく、そして湾曲して見えるのだった。
――老眼鏡ってこういうのかしら?
 などと思っていると、そのうちに飛蚊症も少しずつ治ってくる。
 最初の頃は、
「よかった」
 と一安心したものだったが、それは実に甘い考えだった。
 恐ろしいのは目がハッキリと見えるようになってからのことで、そのうちに、今度は頭痛が襲ってくるのだった。目がだいぶ治ってからのことではあったが、次第に眉の上あたりが痛くなってくる。気難しい人が眉間にしわを寄せることがあるが、まさに自分がそんな難しい表情をしているのではないかと思っていると、痛みは頭全体に回ってくる。どこかで痛みの感覚がマヒしているのではないかと思うほどの痛みがあり、それは痛みを意識しないようにできないかという無意識に起きる本能のもののようではないかと思っていた。
 その痛みはまるで虫歯のような痛烈な痛みであり、確かに虫歯の時も、痛みを少しでも和らげようと何も考えない時は、一瞬痛みを忘れることができるが、そんな状態が長く続くはずもない。
 もうそうなってくると頭痛薬も通用しない。気休めだとは思って頭痛薬は一応飲んでみるが、やはり効いてくるという意識はない。それどころか、今度は吐き気を催してきて、胃に痛みがするくらいであった。
 ひどい時には、意識を失いそうになるくらいで、こういうのを片頭痛というのではないかと感じる。偏頭痛とも書くようだが、まるで扁桃腺の痛みのようで、どちらかというと、弘子は偏頭痛と書きたい方だった。
 身体の特徴からか、低血圧の女性の方に多く見られるというが、本当なのだろうか? と考えたこともあった。
 飛蚊症が偏頭痛を引き起こすのか、偏頭痛の前兆が飛蚊症なのかは分からないが、今までに何度も会ったパターンなので、飛蚊症を感じると、その後の偏頭痛がセットで襲ってくると思い、恐怖に感じていた。
 それでも、最近ではあまりなかった症状だった。
 それだけに、久しぶりに飛蚊症を感じると、怖くなったのも無理もないことで、久しぶりなだけに身体が慣れていないことで、いつもよりも強力な偏頭痛に見舞われるのではないかと思ったのだ。
 この日は偏頭痛よりも、貧血気味であった。手足のしびれを感じていたような気がする。顔が熱くなってきたかと思うと、まわりの声がまるで温泉の中にいる時のように遠くで籠って聞こえるようだった。まるで自分でありながら自分ではないと思っていると、
「このまま気を失ってしまいそうだ」
 と思い、その予想は見事に当たって、気を失ってしまったのだ。
「ひっぱたいても、起きる気配がなかったので救急車を呼んだ」
 と同僚の人から言っていたようだ。
 その人は、弘子に飛蚊症から偏頭痛の気があるのは知っていたが、貧血になるということは知らなかったと言っていた。
 今まだ弘子は、まだ夢の中にいるような気がしていた。
「いつもだったら、ここまで意識が戻っていれば、起きるはずなのに」
 と思うのに、その兆候はなかった。
 だが、それは夢ではなかった。
作品名:因果応報の記憶喪失 作家名:森本晃次