因果応報の記憶喪失
と浅川刑事はそう言って、博士に導かれて、問題の彼女のところに見に行った。
ベッドの中で死んだように眠っていた。
どうして死んだように眠っていたのかという表現になるのかというと、息をしていないかのような無表情で、顔の筋肉のどこにも力が入っていない。
「まるで死んだように眠っているという話を訊いたことがあるが、彼女はまさにそんな雰囲気ですね」
と浅川が訊くと、
「やはり、覚醒の後の昏睡状態ということだからでしょうね。他のクスリを摂取して禁断症状を抜けることができた人は、皆こうやって昏睡状態に陥って、個人差はありますが、長い人出数日眠り続ける人もいます。クスリの種類にもよりますが、たぶん、個人差の方が大きいかも知れませんね」
と博士は言った。
「あの様子だと、本当に数日目を覚まさないと言われても無理もないような気がしてきました。とりあえず、今日は引き上げることにしましょう。またよろしくお願いいたします」
と言って、浅川刑事は、K大学病院を後にした。
浅川が感じたのは、彼女がもし記憶を取り戻したとして、肝心な部分の持っていた記憶を失ってしまっていたり、その部分だけを思い出せないでいたりするとすれば、この事件が何かの暗示のように思え、少し気持ちが悪いと思わせた。
F東区の工場地域に、昔から存在する玩具会社の校長があるのだが、そこで社長の死体が発見されたという通報があったのが、翌日の朝のことだった。発見したのは、いつも最初に出社してくる女性事務員で、いつものように事務所からのカギを開けて、事務所に入ってみると、そこに俯せになって倒れている男性が見つかった。
奇妙なことに経入れているのは床の上ではなく、机にであった。ちょうど腹部が机の端に当たっていて。それで後ろに倒れない安定感を保っているのかと思わせるようだった。しかも、両腕は完全に開いていて、まるで机の端を掴んでいるかのように見えるくらいだった。
さすがに怖くて最初は近寄れなかったが、横を向いているその人の顔を見た時、あまりにも断末魔の顔が恐怖に歪んでいたので、それが誰だったのか分からなかったが、時間の経過とともに少しずつ冷静さをとりもどしてくると、その顔が自分の会社の社長であることに気が付いた。
「社長」
と言って声を掛けるが、やはり返事がない。
首筋に頸動脈があるのが分かっていたので、首筋を触ってみると冷たくて、やはり脈を打っている様子はない。
それを感じてさらに青くなった事務員は、その時点で一気に現実に引き戻された気がしたのだろう。それまでは、まるで夢でも見ているのか、 映画を見ているような錯覚が、他人事で感じられていたのかお知れない。
それともう一つは、まだ誰も来ていないということで、部屋の中は寒く、外気を感じさせることで風が吹いている感覚もあった。そのせいなのか、鉄分を含んだ血の臭いを感じたことが、さらに死体発見のリアルさを物語っているようで恐ろしかったのだ。
気持ち悪さと恐ろしさの両方を感じていると、身体が金縛りに遭ったかのように、簡単に動かすことができず、気になるのは後方だった。
――知らない誰かに抱きつかれたりはしないだろうか?
という思いが、他の誰かが出社してくると、その物音でまるで自分が心臓麻痺でも起こして死んでしまうのではないかという恐怖スラ感じれた。
意外と恐怖を感じている時ほど、いろいろなことが頭に浮かんでくるものだと思うのは面白いことであったが、その時の本人にはそんな発想などどうでもよかった。まずは、その場からいかに逃げ去ることができるのかということが頭を巡り、この金縛りをまずはどうすればいいのかが最大の問題となっていた。
身体が重たいというよりも、誰かに押さえつけられているような思いがあり、そっちの方がよほど恐ろしかった。
恐怖というものがどういう影響を神経に与えるかなど、医者ではない自分には分からなかったが、少なくともそれくらいのことを考えない限り、今の状況を逃れることができないと感じてくる。そうすると、思ったよりも緊張がほぐれてきたようで、金縛りが解けてきたような気がした。
難しいことを考えようとしたことで身体が拒否反応を起こしたのかも知れないとも思ったが、それよちも単純に時間が経ったからだというだけの理由にも思えなくない。どちらにしても、現状を整理できるくらいまで頭の中が落ち着いてきていたのだった。
「まずは、目の前で人が死んでいるのを見つけた。そこにいる人は自分の会社の社長である。俯せになっているところを起こすのは忍びなかった。もしこれが殺人であるとすれば、現状保存が大切だからだ。とにかく警察に連絡しなければいけない。そして、その後には副社長に連絡であろう」
そこまで頭が回ったくるのを感じると、死体を横目に見ながら、警察へ通報した。きっと数十分もしないうちに捜査員が押しかけてくるに違いなかった。
そして、社長が殺害されたことを副社長に電話で報告した。警察に連絡は済んでいて、今から来るだろうというと、案の定、副社長からの指示は、
「とにかく、警察の方が来られたら、その指示に従ってください。その前に他の社員が来た時は、冷静になってもらって、その人にも警察が来ることを話して、警察の指示に従ってもらうように諭してください。私も今からそちらに向かいます」
ということであった。
その日の副社長は出張の予定だったが、緊急事態ということで、急遽出張を取りやめ、工場の事務所に来るようにしてくれた。会社の首脳陣としても、警察の捜査である程度のことが分からないと、善後策を取ることができないということになるのだろう。
第一発見者は末松弘子という。彼女は、高校を卒業して、この工場に配属され、ずっと庶務のような仕事をしてきた。年齢は二十五歳と、今年七年目になる工場ではベテランの域に達していた。工場長がある意味一番頼りにしているのは彼女であり、結構安心していたのだ。
この日、工場長は他県に出張をしていたので、昨日から、ビジネスホテルに滞在していた。副社長に連絡を取った後に工場長に連絡を入れると、ちょうど朝食の時間だったようで、事情を説明すると、かなり驚いていた。その様子は電話口からも想像ができ、時々言葉を切って、新井息遣いをしているのが感じられた。
きっといろいろ考えていたのだろう。善後策もその一つであろうし、そもそもなぜ社長がそこで殺害されていたのか、殺害の動機は何なのか? そんなことを考えていたのではないかと彼女は思ったのだ。工場長は本を読むのが好きで、いつもミステリーを読んでいるのを見ている印象が強かったので、社長が考え事をしているのが感じられると、自分なりに推理の真似事でもしているのではないかと感じられたのだ。
警察はやってきたのは、それから二十分くらいしてからのことだったが、慌ただしい仲にも統制された冷静さで、おごそかと言っていいのか、無言のうちに進められる作業は、庶務を行っている弘子には、見習うべきものであった。立入禁止のロープが張られ、表に制服警官を断たせ、中ではすでに鑑識が捜査に入っているのか、カメラのフラッシュが焚かれていた。