因果応報の記憶喪失
相手の言いなりになって、示談に持ち込み、うやむやになったか。これが一番多いだろう。何しろ、裁判になって訴えたとしても、法廷では相手を有罪にするための状況証拠などが必要なことから、言いたくもないことを根掘り葉掘り聞かれて、弁護士から、まるで合意の上だったのではないかなどという屈辱的なことを言われ、次第に戦う石を失わせるための相手の策略に引っかかってしまうことが多いからだ。だから、起訴前に弁護士が女性を説得に来る。
「もし、このまま争っても、微々たるものしか得られない。そのために、君は法廷で恥辱の目にあわされて、好奇心の目に晒され、それでもあなたは耐えられますか? しかも裁判で百パーセント勝てるわけがない。示談金を貰って、引き下がる方が身のためだ」
と言われてしまうのがオチではないか。
それでも、相手を訴えると、今度はマスコミの餌食である。口では彼女を応援するようなことを書いておきながら、もし世論が彼女を否定する側にまわると、今度は掌を返したように彼女を責め立てるだろう。
それを想うと、裁判を起こしても起こさなくても、結論は決まってくる。果たしてどういう運命が待ち受けているかを考えると、
「世の中が忘れてくれるのを待つしかない」
であったり、
「誰も自分を知らないところに行ってしまおうか?」
などの、ロクな考えしか浮かんでこない。
つまりは、選択肢があって、自由に選べるとしても、その選ぶ場所は底辺でしかないのだ。そんな人生に何が楽しみがあるというのだ。忘れたくないと思っても、本能が忘れてしまおうというほどに、自分の記憶や意識が妬ましいと感じることはないだろう。
「ところで、博士。この病院にやってくる記憶喪失の患者の中に、薬物をやっている人が多いというようなことはありませんか?」
と桜井に訊かれて、
「ああ、そういう患者さんも確かに多いですね」
というので、
「そういう患者さんは他の記憶喪失の患者さんとはどこか違っているんでしょうか?」
と訊かれた博士は、
「ほとんど変わりはないように思うんですが、正直、クスリをやっている人と、それ以外の人とでの記憶喪失の変化の曽合に関し下は、今研究を進めているところではあります。この薬物は非常に粗悪なもので、誰がどんな目的で作ったのか、とにかく粗悪すぎてどのような作用が起こるか分かりません。だから、この薬を作った人は素人ではないかと思うんです。でも、それを他の麻薬ルートのようなもので広めようとすると、不安に感じるはずなんですよ。何しろクスリなので、何が起こるか分からない。いきなり発狂するような形で、共謀になったり、自殺者が増えてしまったりですね。だから、開発グループに対して、かなりの注文をしているはずです。ただ、開発グループが最初から、こんな原料で麻薬を生成するなど、最初から無理があると思っているのだとすると、難しいですよね。どうやってごまかそうかという方に走ってしまうので、違った副作用には目を瞑ってしまうでしょう。その副作用というのが、記憶を失ってしまうことであるとすれば、それくらいのことであれば、今ならまだ騒ぎになることはない。今の間にゆっくり副作用を消していくようにすればいいということになるのではないか。もし、組織に脅されて盃初させられている団体があるのだとすれば、このような発想もあり得るのではないでしょうか?」
と博士は話した。
ちょっとした質問から、ここまでの回答ができるということは、今の状態を博士は把握していて、自分がどこまでどのように考えているのかということを、桜井刑事に話をしたのだ。
さらに教授は続けた。
「これは私の勝手な発想なんですけどね」
と一言言って、一度呼吸を整える様子を示しながら、
「今回、そちらの警察署で捜査されている会社社長の死なんですけどね。あの司法解剖に私の助手が立ち会ったのですが、面白いことを言っていたんです」
と訊いて、桜井は一瞬ビクッとして、
「それはどういうことでしょう?」
というと、
「「あの患者の身体に現れていた死斑、つまり死後に現れる痣のようなものなのですが、どうも今回問題になっている薬物を摂取した人にあるものに見ているというんです。だけど、実際には薬物は検出されなかった。これは自分も立ち会っているから、事実だというんです。これは助手のあくまでも私見でしかないのですが、例の粗悪なや悪物の効果は、死んでしまった人を解剖しても、その痕跡はどこからも洗われることはないので、分からないというんです。しかもまだ未知の薬物なので、一般の知られていない医者や監察医などには分からないものであるというんですね」
と博士はいうではないか。
「ということは、博士の助手の方は、その薬物を摂取した患者を今までに何人も見てきたということでしょうか?」
という桜井の質問、一瞬、鋭いと思ったのか、博士は少したじろいだ。
「ええ、その通りです。たぶん、私が立ち会っていてもすぐに分かったことだと思います。実際に死んだ人を今までに見たことがなかったので分からなかったのですが、記憶喪失にかかっていて、薬物に侵されている人は何人か見てきたした。だからだいぶ分かってきたんです」
と博士がいうと、桜井が何かに気付いたように、
「じゃあ、どうして、今回の聡子さんに限り。警察に届けたんですか?」
と言われた博士は少し考えてから、
「実は、私は聡子さんを前から知っていました。彼女が暴行を受けた時、カウンセリングや精神的な部分の克服のために、病院に通っていたんです。その間に私の治療も受けていました。その頃の彼女はまだまだ危なっかしくて、いつ自殺を繰り返すようになっても無理もないような状態でした。しばらくしてから、彼女がある程度治ったという話を訊いて、ホッと胸を撫でおろしたのですが、今回、記憶を失って運ばれてきた。私が知らない間に何があったのか、調べてみるとやはり、記憶喪失になっている。こうなったら、警察に黙っておくわけにはいかないと思ったんです、ひょっとすると、この薬物は精神的に傷を持っている人を狙って売られているのだとすると、どこかに計画的なものが存在しているのを警察に探ってほしいという思いを込めて、警察に通報しました」
と博士がいうと、
「じゃあ、博士は今まで、薬物と記憶喪失の関係を知っていて、警察には何も言わなかったというんですか?」
と、責められたが、
「あくまでも憶測で、証拠らしいものは何も存在しない。そんな話を警察に話して、果たして警察は動いてくれますか? 動いてなんかくれませんよね? 警察というところは、何かがなければ決して動こうとしませんよね? もし仮に私が、権威のある私が言って動いたとしても、それはあくまでも、権力に靡いたというだけで、あたかも組織として動いているだけですよね? そんなところに誰が話すものですか。私は最初、ずっとそう感じてきました」
と博士は、いつになく興奮してまくし立てるように話し始めた。
「それじゃあ、どうして警察に協力してくれるおつもりになったんですか?」
と桜井が訊くと、