因果応報の記憶喪失
「以前から知っている、聡子さんが事件の渦中に放り込まれているということを知ったのも事実としてはありますが、今回の事件に少し綻びが生まれているのも分かってきたんです。つまり、誰か組織で裏切りものがあって、その人が密かに警察に駆け込むつもりでいるという話が入ってきました。私には警察とは別に探偵の知り合いがいます。その人が私と同じ信念を持って麻薬と記憶喪失の関係を追いかけていたので、その人に頼むと、そういう情報があったんです。それで、少しでも警察にも動いてもらって、その組織の裏切り者と言われる人と一緒になって、おkの事件を終わらせてくれることを願ったんです。でも、私の望みは甘かったことを知りました。警察なんか信用した自分が甘かったと知ったんです」
と博士はついに涙を浮かべたのだ。
「それはどういうことですか?」
と言われた博士は、嘔吐しながら、
「その裏切り者というのが、今回のあなたがたが捜査している事件の被害者その人だったんですよ」
と言って、いかにも吐き捨てるような言い方をしたのであった。
さすがにそれを聞いて、桜井はショックを受けた。
博士はそこまでいうと、もう何も言いたくないと言いたげで、完全に虚脱状態になっていて、知っている博士とはまったくの別人になってしまったようだ。
――博士も、人の子だったということか――
と感じたが、博士の様子を見ていると、それだけのことなのかどうかと、疑問にも感じられた。
博士は明らかに何か意志を持って計画を勧めていた。警察に通報しなければいけないことを怠って、後で分かれば、下手をすれば、地位も名誉も地に落ちるかも知れないというリスクがありながらの行動であった。
しかも、博士のこの警察に対しての恨みは一体何なのだろうか? 今まではいかにも博士だという感じで、冷静沈着だったにも関わらず、いきなりの勧善懲悪を表に出したかのような態度に、桜井が感じたように、博士も人の子だったということなのか、それとも、浅川刑事には感じなかった思いを、桜井刑事に感じたからなのか、つまりは、勧善懲悪という気持ちが自分の中にくすぶっているという感覚であった。
さすがに桜井は、今日はこれ以上博士と話をしていても、実際に今の時点で聴きたい、冷静沈着な意見には辿り着けないと思い、
「すみません、今日はこのあたりで失礼させていただきます」
というと、博士は、
「すみません、取り乱してしまって……。また今度の機会に私の方ももう少し整理して分かっている部分をすべてお話しようと思います。今日はさすがにそこまではできないので、申し訳ありません」
と言って、うな垂れるように、応接席のソファーに倒れ込んだ。
桜井は、その状態を見ながら一例をし、博士の研究室を離れたのだ。
とりあえず、もう一度、聡子の病室に戻った。
「あら、桜井君。ご苦労様。博士とお話できた?」
と聡子に訊かれて、
「ああ、博士はいろいろ教えてくれたよ」
というと、
「じゃあ、博士は私が博士のことを好きなのも話したのかしら? 恥ずかしいわ」
と言って、顔を赤らめた。そして話を続ける。
「私が前に何があったのかということをすべて受け入れてくれたあの人を、私は好きになっちゃったの。あの人が私のことを好きだとなかなか言ってくれないので、もどかしい気持ちになっていたんだけど、桜井君は話しやすいひとだから、博士も話してくれたんじゃないかと思ってね」
というではないか。
聡子は、桜井は暴行のことを知っているというような気持ちでいるようだった。
そして、今の聡子の記憶は、博士が教えたものではないかと思った。一つきになるのは、
「本当は、聡子は記憶喪失なのではなく、博士が計画して記憶喪失に思えるような細工をしたのではないか?」
という思いだった。
博士は、記憶喪失や精神関係の医療やカウンセリングに関しては専門家だった、その博士のすることだから、なんだってできてしまうのではないかと思うのは、考えすぎであろうか?
桜井は、今頭の中で考えが輪廻していた。
「表が裏になり、裏が表になる。さらにその表がまた裏に変わってしまう……」
その思いが頭の中を巡っているかのようだった。
その中に、薬物というものが作用しているとすれば、辻褄が合い合おうな気がしてきた。そこで問題になってくるのが、会社社長の死である。彼の死を発見した女性までが記憶喪失になる。
「あの茶所で殺されたのかどうかは別にして、ひょっとするとあの場所に死体があったということは、あの死体の第一発見者に弘子を仕立てるためだったのではないか? と思うと、何かの辻褄が合っているのではないか?」
と考えられた。
彼女がそのあと記憶喪失になったのも、あくまでも最初から計画されていたことであり、むしろ、彼女を記憶喪失にさせるのも目的だとすると、謎が解けた瞬間、一石二鳥の計画も暴露されるのではないかと思えた。
「計画を複雑にすればするほど、一つの謎が解明したことで、いくつものピースが嵌っていくジグソーパズルのようだ」
と、桜井は考えたが、
「ジグソーパズル?」
ともう一度自分に言い聞かせてみろと、今度は事件の謎が解けていけば解けるほど、最後のピースがそれまで組み立ててきたことが正解でなければ、最初から組み立てなおしということになる。そういう意味で、ジグソーパズルのような加算方式の事件においては、最後の詰めが問題になってくるのだ。双六ゲームのようで、最後のマスト同じでなければ、また逆戻りしてしまうというものと似ている。
「九十九パーセントまで来ていても、最後の最後で戸惑っているうちに、追いつかれて、相手にゴールされてしまう。つまりは、勝負は蓋を開けてみなければ分からない」
ということだ。
――それでは、被害者である社長を殺したのは、一体誰なのだろうか?
という謎がまずは残っている。
防犯カメラに映っていた姿は、女性を思わせる。その体躯からは男性ではないだろう。少なくとも今現状で表に出ている男性で、防犯カメラに映っている人間であるということはないだろう。
――あの事件は、博士や聡子にはまったく関係のない事件のように思えるが。果たしてそうなのだろうか?
と考えていた。
博士は何か目に見えない組織を相手に戦っているように思える。最初は博士がその一味の一人ではないかととも思えたがどうもそうではないようだ。博士が研究しているのは、組織にとって利益になることではなく、逆に、彼らの資金源である薬物と、その副作用である記憶喪失を鶏鳴しようとしていることだ。
ただ、博士が最初から組織に立ち向かおうと思ったわけではないだろう。いくら博士とはいえ、いや、研究者としての使命を帯びていると思っている博士からすれば、命の尊さは誰よりも持っていることだろう。
特に医者として、たくさんの患者の死に立ち会ってきただけに、博士の思いは強いものがあるだろう。
この事件での博士の役割は重要だ。だが、どこでどのように絡んでいるのか、今は分かっていない、もし、それが分かってくると、会社社長の死も分かるのではないかと思うのだ。
博士にとって社長は、
「生きていてほしくはない人物」