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因果応報の記憶喪失

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 ただ、その限界がどうなったかは過去の人が分かっていたのかどうか分からない。つまり答えを出せないまま脈々と受け継がれてきたのか、それとも知らぬ間に消えてしまっていたのか、時代が変わってしまうと分からなくなってしまうだろう。
 ひょっとすると、タイムマシンやロボットという発想は、ずっと昔からあり、
「そんなものはしょせん不可能なんだ」
 とその時代時代で最終的に諦められてきたことで、今の世に考えが受け継がれずに、新たな発想として生まれたものとして君臨しているのかも知れない。
 かなり強引な考えであるが、辻褄は合っているように思えた。まるで、犯罪捜査における推理をしているような感覚なのだろう。
 確かに江戸時代などから、カラクリ人形と呼ばれるようなロボットもどきのものがあり、世界に発表できるようなものすらあった。パリ万国博覧会に出品されたカラクリ人形は、入場者の賞賛を浴びたというような話を訊いたことがあった。
 さらにタイムマシンなどは、開発こそされてはいないが、その発想はかなり前からあったのではないだろうか。いわゆる「相対性理論」と呼ばれるものであるが、室町時代に編纂されたと言われる御伽草子で、浦島太郎の話などがあるが、あれこそ相対性理論の賜物と言えるのではないだろうか。
 室町時代というと、今から六百年くらい前ということになるであろうか。欧州では中世と呼ばれていた時代である。ルネッサンスなどの芸術的なものや、天体についても、やっとガリレイによって、今に近い発想が芽生えてきたくらいの時代であった。そんな時代に浦島太郎の発想は、宇宙人説が出てきても不思議のないレベルであろう。
 カメに乗って海の中に行くという発想であるが、何が相対性理論なのかというと、浦島太郎が竜宮城から帰ってくると、陸の世界はすっかり変わっていて、自分を知っている人はおろか、自分が知っている人もいない。実際には七百年後だということなので、ひょっとすると、今の時代のことを書かれているのかも知れない。しかし、問題はたったの数日しか経っていないはずのものが、七百年も陸では経過していたなど、誰が信じられるであろうか? 何と言っても自分は年を取っていないのである。当然、他の世界だけが早く過ぎてしまったのか、それとも、自分のいた世界があまりにもゆっくりだったのかは分からないが、自分だけが違う世界にいたということは間違いのないことだろう。
 相対性理論では、光の速度を超えるような高速で移動した場合。時間の経過は極端に遅くなると言われている。宇宙ロケットで地球を飛び立って、一年後くらいに戻ってくると、地球上では数百年過ぎているという計算になるらしい。だがこれらのタイムマシンでも、ロボット開発でもタブーというものが発想の中にあり、それが開発であったり、発想を豊かになることを妨げている。
 タイムマシンでは、いわゆるパラドックスというものがあり、これが解決しない限り、開発できないという宿命がある。
 タイムマシンというのは、それに乗れば別の時間へ移動できるというものであるが、例えば過去に向かったとして、自分の親に遭ったとしよう。未来から来た自分と過去の自分が出会ってしまった。何らかのトラブルがあって、どちらかが殺されてしまったとしよう。その時にどうなるかということである。
 もし、過去の自分が死んでしまうと、それ以降の自分が存在しないということになるから、どちらも存在しえない。では逆に過去に戻った自分が殺されてしまうとどうなるだろう?
 そのまま自分は生き続けるのであるが、過去に戻って殺されることになるのだが、自分の手で未来を変えることになる。この場合は普通なら何も起こらないはずなのだが、いくら未来の自分でも、自分で自分を殺すということが、果たして許されるのだろうか?
 そんな倫理的な発想と、現実との狭間でいかに考えるかということであるが、このようなことがあり得てしまうと、時系列の秩序は保たれなくなるに違いない。やはり、人間が勝手に時間を飛び越えるということは限界があると言えないだろうか。普通なら、過去に言った場合に、
「自分の親を殺してしまった場合」
 ということで説明されるのだろうが、さらに曖昧な条件にしてしまうと、どう説明していいのか分からない。そこに限界を感じるのだ。
 この考えは、
「自分の尻尾にかじりついたヘビが、自分をどんどん飲み込んでいく」
 という発想に似ている。
 最後にはどうなるのか?
 曖昧過ぎて発想できないことを限界として言い訳するのであれば、
「開発は不可能だ」
 と説明すればいいものを、いかに誰もが理解できるような発想を繋ぐことができるかがハッキリしないため、タイムマシンというものへの執着をいまだに持っている科学者や、その開発に期待するほとんどの人類という構図が出来上がっているのだろう。
 それはタイムマシンに限ったことではない。まだタイムマシンの方が限界を感覚で分かっている分だけ、開発が難しいことは世間的にも理解されていそうな感じだが、ロボット工学に関しては、矛盾と辻褄のジレンマが絶望的であるくせに、タイムマシンよりも期待している人が多いだろう。
 確かに、理論的なことを解決できれば、開発も無理ではないか、それには人間というもののメカニズムが分からなければできることではない。
 つまり、人間が一番、人間を理解していないということであろう。
 ロボット開発には、
「ロボット工学三原則」
 という問題と、
「フレーム問題」
 の二つが存在する。
 ロボットを開発するうえで、一番の問題になってくるのが、いわゆるロボットに対しての制御の問題である。これはロボットに限らず、兵器と呼ばれるものには、必ずと言っていいほど、形は違えども存在するのが、この制御である。
 例えば、拳銃のような小さなまのから、原子爆弾のような強烈な破壊力のある爆弾まで、安全装置が存在しているではないか。
 また車や電車などの乗り物にも、安全停止装置のようなものがついていたりする。
 すべては暴発を防ぐためのもので、これから開発されるであろうロボットにも、当然人間のために暴発しないような安全装置が必要になってくる。ただ、これはあくまでも観念の問題であって、AIと呼ばれる人間が判断するのと同じ破断をロボットがするための装置に組み込まれるものである。
 kの三原則は、
「人間の人間による人間のための理論」
 が組み込まれなければいけない。
「ロボットは、人間を襲ってはいけない」
「ロボットは人間に服従しなければいけない」
「ロボットは自分の身を自らで守らなければならない」
 というのが大きな三原則になるのだが、ここには絶対的な優先順位が存在する。つまり解釈によって、判断が難しい部分があるのだ。矛盾している部分も存在し、人間であっても、とっさの際には判断を誤ってしまうのではないかと思われることが、孕んでいるのだから、ロボットにどこまで解釈できるかが問題だということだ。
作品名:因果応報の記憶喪失 作家名:森本晃次