因果応報の記憶喪失
そういえば、小学生の頃の初恋だと思っている恋に関しては、その女の子もあまりイメージが変わらなかったのだが、ある日髪の毛を思い切り切ってきたことがあった。その時を境にそれまでずっと仲良く遊んでいた桜井だったが、急に彼女を避けるようになった。自分のイメージしていた好きだった彼女がどこかに行ってしまった気がしたからだ。そんなイメージを自ら変えてきた彼女に対し、同じ人間でありながら、片方では好きなままなのに、片方では避けるようになったというジレンマを感じているうちに、次第に相手が自分を避けるようになった。自然消滅ではあったが。しょせんそれだけの恋でしかなかったということであろう。
初恋を思い出させるくらいの懐かしさを、聡子は持っていた。記憶を失っていて、桜井に声を掛けた時点であれだけのショックを受けた看護師は、それまでの自分に対しての態度と明らかに違う桜井に対しての態度に対して、嫉妬のようなものがあったのかも知れない。
聡子のあどけない表情には、疲れのようなものが見える。それが年齢を感じさせる唯一のもので、その雰囲気がなければ、桜井も見た瞬間に、彼女が聡子であるということをすぐに看破したことであろう。
「桜井君は、どうしてここにいるの?」
と訊かれて、思わずどう答えていいのか湧かなかったので、看護師さんを見ると、彼女は軽く頷いた。
それを見て、桜井は意を決したかのように、
「聡子ちゃんに会いにきたんだよ。待ってていてくれたのかな?」
というと、まるでサルになったかのような満面の笑みを浮かべ、桜井は自分の姿が彼女の瞼の裏に英雄であるかのように写っているのではないかと思ったのだ。
「私も待っていてよかった」
と聡子はいうので、
――ひょっとすると中学時代は自分の片想いだと思っていたけど、お互いに片想いだとずっと思っていたのかお知れない――
と感じた。
「彼女が記憶喪失だというのは、どういうことなんですか?」
ハッキリとは分かりませんが、ショッピングセンターで倒れられて、それでこちらに搬送されたんです。ちょうど川越博士が追われたので、見ていただけたんですが、とにかく記憶を失っているということだったですね」
と言った。
看護師は桜井が刑事であることを知らないので、余計なことを言ってはいけないと思い、最小限の話しかしなかったが。そもそも相手が刑事であっても、迂闊に話をするわけにはいかない。プライバシーの侵害、個人情報の問題に抵触するからだった。
それにしても、桜井は時々自分が初恋と言ってもいい、聡子のことを最近特に思い出すようになっていただけに、彼女だと分かった時は本当に嬉しかった。
だが、最初に声を掛けられた時、懐かしさを感じたはずなのに、それが聡子だとすぐに思わなかったのはなぜだろうか? もし、聡子だと悟ったとしたら、それは自分の思っていた聡子とほんの少しでも違っていたことに対して、思い込みの激しい自分に対しての戒めの気持ちがあるからだろうか。
「中学時代と、今の彼女はやっぱり変わってしまっているんでしょうね? そうでなければ、最初に彼女から声を掛けられた時、あのような不思議な顔はすることがないと思うんですけども」
と、看護師に言われたが、
「いや、そうでもないんですよ。すぐに分からなかったのは、やはり表情が違っていたからなんですが、懐かしさは確かにあったんです。しかもこの懐かしさは誰なのかというのも分かっていたつもりでした。だからこそ、その違いを意識してしまったことで、彼女と違ってほしいというような意識が働いたような気がするんです。今ではその思いを打ち消したくて仕方のない自分もいるんですが、彼女が記憶喪失だと聞いて。打ち消してはいけないと思うようになりました」
と、桜井は言った。
「ねえ、桜井君」
と聡子が訊いてきた。
「何だい?」
と答えると、
「私、高校は女子高志望なんだけど、桜井君とは離れ離れになっちゃうよね? でも私は桜井君のことが好きだから、私のことを忘れないでほしいの」
というではないか。
このセリフは中学時代に言ってほしいと思った一言であった。今でもその一句ずつを覚えているつもりの言葉だった。
自分が創造した言葉を、どうして彼女がなぞるように言えるのか、それも不思議だった。
それよりも不思議なのは、もう十年も経っているのに、あの時の言葉を一字一句忘れていない自分の記憶力が恐ろしく感じられる。
逆に、
「僕のこの記憶力の半分でも、君に与えられたらよかったのに」
と聡子にいうと、聡子は寂しそうな表情になり、
「桜井君、そんな悲しそうな表情をしないで」
というではないか。
聡子は悲しそうな顔をしているが、実はその意味は、あくまでも桜井のことだったのだ。桜井の顔を見て悲しそうに感じたら、聡子も悲しそうになり、楽しそうであれば、楽しそうなのだ。そのことが分かってくるのを感じると、聡子がとても可哀そうに思えてきた。
本当なら悲しそうに思ってはいけないのだろうが、そう思うことで、自分の正当性を証明しようとしているようで、その思いが、聡子に言ってほしかった言葉を忘れずにいたという意識に繋がっているのかも知れない。
「僕は、どこか上から目線のところがあるんだろうか?」
と、その思いが、聡子に悲しい思いをさせて売るのではないかと思うと、またしても悲しくなってくる。
しかし、これが彼女を迷わせてしまっているのだと思うと、
――恋愛感情の根底は、気の毒に思うところにあるのではないか――
と思うようになっていた。
桜井は、ここで聡子に遭ったことを、最初はずっとよかったと思っていたが。それも聡子の無意識の意識の中にあることであれば、そういうことなのかと考えてしまうのだった。
見ているはずの犯人
桜井刑事は、もう一度川越博士に逢う必要があった。今度は聡子の話についてであった。まさか桜井刑事が聡子と知り合いだと思ってもいなかった川越啓二はビックリしたが、
「世の中には、本当にこのような偶然というのも存在するんだな」
と感心していた。
医学、心理学、精神学の医者として、このような偶然を全面的に信じているわけではないが、いわゆる、
「科学で証明できないことは起こり得るはずはない」
ということを提唱することはなかった。
「それこそ、科学に対する冒とくで、そんなことを我々が決めるというのは、上から目線である証拠だ」
と言っていた。
つまりは、
「科学というものを解明するには、科学を人間の心理と切り離して考えるものではなく、心理が科学の裏付けと考えるなら、科学を人間の尺度で図るということを冒涜だと思うのは当然だ」
というものである。
「科学によって証明されるものは、あくまでも科学の範囲でしかなく、自然を科学として解釈することは、科学というものを無制限に発達させる力になる」
と考えられるというのである。
いつも、非常に難しいことを言っているが、要するに
「科学には自然科学という言葉があるように、自然ですら、科学の一種だと考える考え方であるが、自然は無限の可能性があるのに、科学には限界がある」