因果応報の記憶喪失
最近、記憶喪失の人が多いという話は、どこかで聞いたような気がした。誰から聞いた話だったかは覚えていないのだが、たぶん、誰か刑事から聞いた気がしたので、刑事課の人間だったような気がする。しかもそれがいつのことだったおかも思い出せない。それを思うと、
「僕も、一種の記憶喪失なのかも知れないな」
と感じたが、自分の場合は、情報がたくさんありすぎて、キャパシティをオーバーしているのではないかと思うのだった。
桜井刑事は、肉体派だと思っているので、頭の回転や記憶に関しては、ほとんどよいという自覚はない。したがって、日頃からメモを取ることで忘れないように癖をつけている状態だった。
だが、メモを取るようになってから、それまでほとんどないと思っていた記憶力が伸びてきた気がした。さすがにメモがないと不安ではあったが、きっとメモを取ることで安心感が深まり、そのおかげで、記憶がよくなったと思い込んでいたのだろう。
それこそ自己暗示というものだ。こういう話は、川越博士が専門なのかも知れないが、川越博士と話をしていると、今まで考えたことがなかったと思っていることも、潜在意識の中にあったような気がして、改めて話を訊いたという意識になるのであった。
川越博士の顔を思い出してみると、以前どこかで会ったような気がしていた。それをさらに思い出そうとすると思い出せないというループに入ってしまいそうなので、余計なことを考えないようにする癖がついてしまったのかも知れない。
そういえば、先ほど博士と話をしている時に、今と同じ感覚があったような気がした。博士がそういう意識を呼び起こしてくれるような暗示をかけていたのか、それとも自分が博士にそういう意識を持ってしまったのかのどちらかであろう。
そう思うと、
「博士はマインドコントロールができるのではないか?」
と思った。
心理学を志している人は、その成果を試したくなるだろうから、自分で実験を考えるような気がする。その時に一番ありえる成果としては、催眠術であったり、マインドコントロールのようなものではないかと思うのは、桜井刑事だけであろうか。
桜井刑事は、博士のことを思い出しながら表を見ていると、そこに一人の女性がこちらを見て、手を振っているのが見えた。彼女は車椅子に乗って、頭には包帯という痛々しい雰囲気で、後ろから看護師に押されていたが、こちらに向かって手を振っている姿を見ると、その痛々しさを感じさせない雰囲気に圧倒されそうな気がした。
看護師は、ニコニコしながら頭を下げていたが、その様子を見ると、これが彼女のいつものパターンではないかと思い、自分を知っているから手を振っているわけではないかのように思えた。
彼女が、後ろを振り返って看護師に何かを話しかけている。その様子から、看護師はチラッとこちらを見て、頭を下げたかと思うと、車いすを引っ張って、今来た方向に戻っていった。
「何だったんだろう?」
と独り言ちたが、気にせずにステーキに舌鼓を打っていたが、今度は腹の具合も舌の具合も慣れてきたことで、食欲はある程度満たされた気がした。
そもそも、桜井刑事は腹が鳴るほどに食欲が旺盛であっても、少し腹に入れば、それだけで満たされた気分になり、気が付けば半分も残しているということもあったりした。そういう意味で、高価な食事はもったいないとも言えるのかも知れないが、逆にそんなにたくさん食べれないだけに、そんな時こそ、おいしいものを食するという気分になるのかも知れない。
ステーキは冷えてきていて、少し硬くなっているので、おいしさは半減していた。だが、自分では十分に満足できた気がしたので、もったいないという気持ちで、全部食べようとは思わない。それがいつもの桜井刑事だった。
食後のコーヒーを頼もうと、後ろを向いた時であった。入り口のところに車いすに乗った一人の女性がこちらに向かってきていた。看護師に後ろを押されている姿は既視感を感じさせたが、果たしてその人は、やはりというか、先ほど自分に手を振っていたその女性だったのだ。看護師に向かって話しかけていたのは、ここに来たかったので、相談していたのだろう。そう思うと、何か嬉しく感じられた。
しかも、彼女のイメージは今までにどこかで会ったことがあるという思いであって、それがいつだったのかハッキリとは思い出せないが、この感覚に間違いはないと思うのだった。
彼女はニコニコとさっきの笑顔と同じだった。やはり、初めて見た顔ではないような気がする。
すると、彼女がおもむろに口を開き、その唇をついて出てきた言葉に、桜井は驚愕してしまった。
「桜井君」
やはり、そう呟いたのだ。
思わず桜井は、
「はい」
と答えた。
すると、看護師はビックリしたような顔になり、
「すみません。桜井さんなんでしょうか?」
と訊いてきたので、
「はい、そうです。桜井です」
というと、また看護師はビックリして、穴の開くほどの目で、車いすの彼女を見つめた。
「覚えていらしたんですね?」
と話しかけるが、車いすの彼女は、何のことなのかさっぱり分からないという様子だったのだ。
「どういうことでしょうか?」
と、桜井が訊くと、
「実はこの方、記憶喪失なんですが、あなたのことだけは覚えていたんですね?」
と言われた桜井は、
「私も経った今思い出したのですが、ひょっとして彼女は、九条さん? 確か、九条聡子さんだったかな?」
「ええ、そうです。あなたの方も忘れていたということでしょうか?」
と訊かれて、
「忘れていたというよりも、私が知っているのは、中学三年生の頃ですので、もう十年は経っています。しかも、まだ子供の頃ですからね、今は正直だいぶ彼女も雰囲気が違うし、自分も違っているはずなんですけどね」
と桜井は言った。
「まあ、中学時代の……。ということは、今までの途中の記憶をすっ飛ばして、桜井さんを覚えていたということなんでしょうね。そんなに仲が良かったんですか?」
と言われて、
「いえ、ほとんどお話をしたことはなかったですね。もっとも、僕がずっと片想いをしていただけなんですよ。でも、今の彼女も昔の面影がありますね。今の彼女と普通に出会っても、好きになっているような気がするくらいですよ」
と、恥ずかしげもなく言ったが、彼女との思い出がいい思い出だったのは、彼女に対してのイメージがブレずに、最初から最後まで一緒だったからなのかも知れない。
少なくとも今までの桜井の知り合いの中で、ずっとイメージが変わらずにいた相手は、彼女だけだったように思う。