モデル都市の殺人
別に国家が違うわけでもないので、パスポートが必要というわけでもない。そのため、行き来が自由なのだから、別に他の土地の人が殺されていたとしても、警察の捜査で管轄などという面倒臭いものがあるだけで、別に疑問でも何でもないだろう。
K市で発見された被害者は、K市内にある、
「春日井板金工場」
というところで発見されたのだった。
死体を最初に発見したのは、その工場にいつも一番乗りで出社する片桐という男性社員だった。
彼は、今年で五十歳になる老練の社員で、若い頃は現場主任を長年続けてきたが、四十代前半に怪我をしてから、腰痛に悩まされるようになり、最近は現場よりも、庶務や会計のような仕事をしていた。
現場主任の時もそうだったが、彼はどの部署に行っても実にうまく業務をこなす。さらに人の遣い方もうまいので、上司から信頼され、部下からは慕われるという、会社としては彼ほどありがたい人はいなかった。
この街の工場経営というのは、他の街とは一線を画していて、見た目は、個人経営の様相を呈しているが、実際には、工場どうして共同体のようなものを作っていて、それら共同体は、市が運営している組合に属する形で機能している。
つまりは、ピラミッド型の構造になっていて、末端の工場は、どこかの共同体に属することで、昔の隣組のような状態で、どこかが経営不振に陥りそうになると、共同大の上部組織である組合から、補助金が出される。そのため、毎月工場は、補助金を積み立てるという形で上納し、共同体は集められたその中から、共同体組織の損ザクできる程度の金を抜いて、組合にさらに上納する。共同体というのはいわば他の市土地でいえば、一企業あるいはグループ企業のトップに当たるようなところであり、共同体には他の土地での一企業のような企業経営もない。そのため、お金が組合に集まりやすく、金回りもいいのだ。
共同体は、組合と一工場の直接の交渉という仲を取り持つことで、それぞれに損のないスムーズな運営をするために不可欠であった。ただ、共同体には、ほとんどの能力はないが、権力を集中させている。共同体というのは、いわゆる頭脳のようなものであり、工場経営のノウハウを知っているベテランが、工場から派遣させる形で、運営されていた。実態としてはそれほどの存在感はないのだが、一種のフィクサーという形で君臨していると考えれば理解できる人も多いだろう。
K市における成功の秘訣は実はここにあり、頭では構造は分かっても、集中している権力が共同体にあったり、その共同体に、工場を動かしたり組合を操るという能力はないが、頭脳としての権力は与えられている。そのあたりの理屈が見ているだけでは分からないのだろう。
頭脳なのに能力がどうしてないのか? 能力がないところにどうして権力が存在するのか。そもそも共同体なるものはどういう存在なのか。見ているだけでは矛盾しか感じないに違いない。
理解しようとすると、成果としての数字が必要になる。市が隠したい理由がそこにあるのだった。
ただ、この仕組みのすべてを分かっていて、全体を掌握できる人が果たしてどれだけいるかというのは、実際には分からない。最初が実験的に行ったやり方だったが、ここまでうまくいくとは誰も思っていなかっただろう。数字を見れば、一目瞭然だという理屈を分かっている人も少ないに違いない。
こんな街の状態をある程度分かっている人の中に、この片桐という男も含まれていた。現場から裏方に移行できた秘訣は、やはりこの街の組織を全体的に把握している証拠であろう。
片桐氏は四十歳後半から、共同体の理事も同時に勤めていた。共同体というのは、あくまでも疑似空間のようなもので、実態があるわけではない。そこが他の組織采井とは違うところで、当然、決まった規則もなかった。それぞれにモラルを持って運営を行うことを組合が認めたことで、共同体は権力を持つことができる。能力がないのも、実態を持たない団体であれば、当たり前のことだった。
むしろ、実態を持っていないのに能力だけがあるというのが恐ろしいことであり、それでも共同体に実態を持たせないという信念は、K市だからこそ行えるものだった。何も分からずに結果として成功していることで、形式を見て、共同体なる組織を作っても成功するはずもなく、なぜ、共同体が権力を持たないのかということを理解しなければ、運営以前の問題だとは言えないだろうか。
共同体というのは、その名のごとく、何かの集合体なのだ、その何かというのは、頭脳であり、ノウハウである。それをもたらすのが現場の経験であったり、現場を切り盛りする能力である。共同体に納涼がないと言ったのは、統率能力であり、その理由は、それぞれの企業の頭脳を終結させたことで、それぞれの工場の事情があるからだ。ここに能力を与えてしまうと、県曲を与えた分、見境がなくなる可能性がある。そういう意味での行動力を制限する必要があったのだ。
片桐もその頭脳のうちの一人である。先代が築いてきたこの工場を、先代が存命の時から支えてきた人も、すでに数少なくなっている。その頃というのは、まだ片桐は二十代だった。
「まだまだ若い者には負けん」
と言って、六十代までは現役だった先代のバイタリティの高さには、さすがに片桐もビックリしていた。
いくら自分が頑張っても、先代のようになれるわけはないと思っているが、五十代になってきた最近では、さすがに目に見えて体力の衰えを感じてきたのだった。
今の工場長は、三代目に当たる。先代の年を取ってからの子供だったので、まだ三十代後半の工場長であり、少し若すぎるところが懸念されたが、そこは片桐氏がサポートすることで何とか切り抜けてきている。
そもそも、共同体という発想も、春日井板金工場の初代が考え付いたものだった。
「他の土地とは違う独自の発想には、この共同体構想は、画期的だと思うのだがいかがだろう?」
と言って、昭和の頃に提案していたのだが、ああでもないこうでもないと激論が戦わされた中で、最後に残ったのは、最初に初代が提唱したものとほとんど変わらなかったというのは皮肉というべきか、それほど先代の目が先見の明だったのかということを証明しているということになるだろう。
その後にバブルの時代が押し寄せてきて、世間は先行投資と称して事業拡大に躍起になり、
「形にないものを追い求めた」
という結果が、バブル崩壊後の悲劇を呼んだのだ。
だが、K市のように共同体なる形のないものこそ、
「バブル」
であり、バブルの象徴ともいうべき共同体が、なぜバブル崩壊と同時に消え失せることがなかったのかというと、共同体は決して事業拡大であったり、見えないものを見えているかのように追い求めることはしなかった。何しろ、その中にいたからである。
形のないものの一方が崩壊し。一方がこれからの時代を担うと思われたというのは、何とも皮肉なことであろうか。
そこに、実はK市の成功の秘訣があったのだ。決して表から組織を見ただけでは分かるはずのない。しかし、結果としての数字からはすべてが見えてくるというのは、このバブルの社会的失敗があったからだ。