逆さ絵の真実
最初は、絵がうまくなるための練習のつもりだった。実はこの練習法はずっと昔からあるもので、実際には逆さ絵という発想はなかったわけではないのだ。ただ、練習方法の一つというだけのもので、そこになぜ誰も芸術性を見出さなかったのか、それが不思議な気がした。
「模写していて、想像しているものではないので、写実主義に近い、しかし、実際のものを描いているわけではないので、自然主義というわけでもない」
この発想から、逆さ絵という技法を確立してみようと思ったのだ。
勝野は、イソップ物語の中にある、
「卑怯なコウモリ」
という話を思い出していた。
この話は、かつて、獣の一族と鳥の一族がどちらが強いかということで戦争していた。その様子を見ていた一羽のコウモリが、獣の一族が有利になると、獣の前に出ていって、「自分は全身に毛が生えているので、獣の仲間だ」
といい、逆に鳥が有利になると、鳥の前に出ていって、
「自分には羽があるので、鳥の仲間だ」
といい、それぞれにいい顔をしていた。
だが、その後に、鳥と獣が和解し、戦争が終わると、何度も寝返ってきたコウモリを誰も信用しなくなり、嫌われ者となってしまった。そして皆から、
「お前の湯女卑怯者は、二度と出てくるな」
と言われて、居場所がなくなったという話であるが、勝野が頭の中で描いている逆さ絵の発想は、まさにその「卑怯なコウモリ」に近いような気がしていた。
別に新たな芸術の境地を模索しているのだから、卑怯でも何でもないはずなのだが、自分の中で、
「写実主義でも自然主義でもそのどちらにも自分の実力を発揮できないということが分かったので、それ以外のジャンルを開拓することで、逃げているのではないか?」
と考えた。
そう考えると、今度はまた別の発想が浮かんできて、
「新しいものを作るという発想は、今ある流派を極めることができないことで、その逃げを正当化しようと思っていたからではないだろうか?」
というものであった。
これは、今までの自分の生き方を、根本から覆すものであった。本当は考えてはいけない領域の発想に踏み込んでしまったのかも知れない。
この思いが、
「逆さ絵というものを、自分の代で終わらせても構わない。いや、むしろ終わらせなければいけないという自分の中の黒歴史ではないだろうか?」
という発想に繋がっているように思えてならなかった。
自分が弟子を取りたくないと思ったその時、自分にそこまで分かっていたのだ。だから、ずっと弟子を取ろうとは思わなかったし、実際に弟子になりたいという殊勝な人間もたまに出てきたが、それはあくまでも、興味本位であり、他の門下に入っても、とても続きそうにない連中にしか思えなかった。
と言っても、そこまで自分の目が正確であると言えるものではないが、少なくとも逆さ絵を継承したいと言ってきた時点で、逆さ絵というものがどういうものなのかを分かっていない証拠だと思えた。
もちろん、逆さ絵というものに対して、自分の歪んだ精神が生み出したものであり、一種の邪なものなのかも知れない。それだけに、誰にも分かるものではなく、本当に考えるのであれば、
「逆さ絵を基盤としたオリジナルな派生を創造してみたい」
とでも言ってくれれば、自分が感じてきた逆さ絵の精神くらいは、実践だけでしかないが教えることはできたかも知れない。
それすら、発想としてないのであれば、論外でしかないと思った。だから自分には弟子はいらないという結論になったのだった。
だが、準之助はそうではなかった。
逆さ絵を継承するという意思があったのかどうか、今では定かではない。ただ、何よりもやつには、まったくの素人なのに、弟子入りというとんでもない発想があったのだ。
ほとんどのところでは門前払いを食らっても文句はいえない。普通なら当然、門前払いが関の山だ。当然、彼も自分のところに来るまではたくさんの人の弟子入りを申しでてきたに違いない。自分のところが最初ではないだろう。
だが、そんなことはどうでもよかった。今から思えばどうして彼を弟子にする気になったのか、正直なところ、あの時の心境を思い出すことはなかなかできないでいた。
それでも弟子として彼を雇った。昔でいえば、書生のようなものであろう。自分の世話をさせながら、そこで一から芸術を学ぶ、自分でいうのもおかしなものだが、他の人にはない異端児てきとも言える勝野流の発想に染めていくことは、一種の洗脳であり、それがいいのか悪いのか、はたまた、許されることなのか、少しはそんなことも考えたが、相手が望むのであるから、許す許さないの問題ではないだろう。それを思うと、この場合の洗脳は悪いことではないように思えた。芸術家なのだから、少々歪で偏屈であってもいいゆに思える。それが勝野流とでもいえばいいのだろうか。
ニセ流派との対決
弟子である準之助は、自分流の逆さ絵をある程度完成させていた。
彼が勝野先生の弟子になってから、三十年が経っていて、入門当時高校を卒業仕立ての子供だったのに、今ではすでに五十歳が近づいていた。
勝野流は、すでに今は昔になっていて、逆さ絵というと、今では山本流と言われるようになっていた。
ただ、準之助は、
「山本流は、確かに勝野先生の教えを受けた私が育んできたものなので、祖という意味では勝野流ではありますが、あくまでも、私オリジナルの流派です」
と言ってきた。
口の悪い人などは、
「何をお高くとまってやがるんだ。何様のつもりだ」
と言っている絵画評論家もいるが、それは、勝野と準之助の間の師弟関係を知らない人が勝手に言っているだけだ。
知っていればそんなことを口にできるはずもない。だが、それに誰も異を唱えないのは、準之助の気持ちを分かっているからで、いまさら波風を立ててしまうと、その余波が勝野先生に及ぶということを恐れたからであった。
準之助にとって勝野は、いつまで経っても師匠である。ただ、それは芸術全般の師匠ということであり、逆さ絵はあくまでも準之助オリジナル。
「そんなことも分からないくせに、よく評論家などできるよな」
と言いたいのを、グッと表に出さずに堪えていたのだ。
準之助は別に聖人君子ではない。人並みに不満もあれば、腹の立つこともある。だが、そんな感情をほとんど表に出したことはない。なぜなのか、それは準之助にもよく分からなかった。
自分の作品を分かってくれる人がいて、贔屓にしてくれる人もいる。そして、ファンがいてくれて、たまにファンとの間でサイン会なども催される。
準之助は、そういうファンとのイベントは嫌いではなかった。むしろ、世間の人と接する機会は楽しいと思っていた。
高校を卒業してから、ある程度自分に自信が持てて、気持ちに余裕ができるまでは、世間と交わらず、一心不乱に勉強することを目指した。
そもそも、高校時代までに、自分が何を好きで、何に対して勉強していることに気づけなかったことが、大学進学に対して無理があったのだ。