逆さ絵の真実
と訊かれ、質問の意味をすぐには理解できなかった老紳士だったが、少し考えてから、
「最初の頃は、何かを考えているという感じがありました。その都度頭を抱えているように見えたので、あれは、思い出そうという気持ちだったんでしょうね。見ているだけでも痛々しさを感じたので、無理をしない方がいいと言ってやりましたが、それが思い出そうとしていたんでしょうね。でもそのうちによほど辛いのか、考えることをやめました。すると次第に顔色もよくなってきたので、本当はもう少し改善すれば、医者に連れていこうかと思ったんです」
と老紳士がいうので、
「最初から医者に見せようとは思わなかったんですか?」
と訊かれた老紳士は、
「最初はそれを考えましたが、いきなり連れて行こうとすると、拒否反応を示しそうな気がしたんです。まわりを避けている様子が見て取れたので、あれだけまわりに対して疑心暗鬼だと、医者なんかに連れていくと、却って逆効果だと思ったんです。少しでも自然治癒してくれればいいと思っていたのですが、だいぶよくなってくれてよかったと思っていたところだったんですよ」
「それが、いつしかいなくなってしまった?」
「ええ、一週間近く経って、だいぶ精神的に落ち着いてきたのか、いい表情になったんですよ。だから少し安心していたんです。これなら病院もいらないなってですね。それにもう一つ病院を恐れたのにも理由があってですね」
「というと?」
「彼を最初に発見した時、何かの薬を飲まされたのか、呂律が回っていなかったじゃないですか? もしその意識が頭の中にあったら、薬品の匂いに反応して、半狂乱にでもならないかということを恐れたんです」
と老紳士は言った。
「なるほど、それは確かにいえますね。どころで彼を最初に発見した時、彼からクスリの臭いがしてきましたか?」
と訊かれた老紳士は、
「それはありませんでした。だから、彼自身が発するというよりも、病院のように薬品の臭いが当然のような場所であれば、思い出したくない方の意識を思い出そうとするんじゃないかと思ってですね。特に記憶喪失になる人のパターンとして、思い出したくないことがあるから、すべてを忘れようとする意識が働くこともあるんじゃないかと思うんです。忘れてしまいたいことと思い出したくないこと、その両方があれば、記憶喪失は二重のものとなって、意識を取り戻すために、二段かい必要になるでしょうね。そういう意味で、彼は二重人格かどうかというのも問題になるんじゃないでしょうか?」
と、老紳士はまるで心理学の先生のような言い方をした。
しかも彼の口調には説得力があり、
「あなたは心理学化何かをおやりになっていたんですか? 妙に説得力を感じるんですが」
と浅川刑事が訊いた。
「私は、K大学の大学院にいたことがあるんですよ、心理学を専攻していましたがね。研究室のようなところで、臨床実験をしていたりしました。心理学を研究するのに疲れて、今の田舎に引き込んだというわけです。大学を辞めてからしばらくは実家の漁業をしていたんですが、兄貴が後を継ぐと言って帰ってきたので、私は女房の実家の漁業を継ぎました。元々、女房の実家の方からも、跡取りがいないということで困っていたようだったので、こちらとすれば、渡りに船でした。おかげで結婚には一切の障害がなく、恋愛に関しては、私の心理学の入り込む隙間がないくらいですよ」
とニコニコしながら言った。
「ちなみに、羽村氏がいなくなった前後、何かおかしな様子はありませんでしたか?」
と言われた浅川刑事に言われた老紳士は、
「それはなかったと思います。いつも通りに漁業の仕事を手伝ってくれていました。ここ数日、隣の漁師の息子が、彼を気に入って、よく、夜街のスナックに誘ってくれました。まだ数回だけだったんですが、彼は楽しそうでしたよ。元アイドルをやっていただけあって、自分の目立つためのタイミングのようなものを、しっかりと捉えていたんでしょうね。誰も羽村君のことを悪くいう人はいなかったようです、でも今から思えば誰も彼を知らなかったというわけもないだろうし、知っていて黙っている方が都合がいいと何か感じるところがあったのかも知れない」
と思ったのだ。
羽村氏がいなくなった後の足取りは、ハッキリとは分からなかった。だが、原因については、老紳士の方で思いあたることがあるようだ、
「羽村君がいなくなってから、少しして、彼を知っているという人がきて、彼が自分の描いた絵を忘れてきたので、絵を返してほしいと言ってきたんです。それで私たちは、彼が家に帰ったんだ。そして、代理の人をよこしたんだと思って、記憶が戻ったんですね? と訊くとその人は急にオドオドし始めて、結局絵を取らずに帰って行ってしまったんですよ。何かおかしいと思ったのですが、その理由は分からずじまいでした」
という話があった。
「訪ねてきたのに、絵を受け取らずに帰った? しかも記憶喪失だということを知らなかった? 何か怪しいですね」
とT警察の刑事がいうと、
「いや、その男が犯人かも知れませんね。その時にはもう殺されていたのでしょうから、記憶が戻っていたのか、それとも記憶喪失のままだったのか、訪ねてきた男にも分からなかったんでしょうね。ただ、その絵に何か秘密があって、その絵を取って帰ったとしても、それが本物なのかどうか曖昧だと思ったのでしょう。もしそれを誰かに渡さなければいけなかったとすれば、ニセモノを渡したというよりも見つからなかったという方が幾分マシだと思って、その絵をそのままにして帰ってきたのかも知れない。もし、絵を持ってきてしまうと、後で、必ず絵を持って行ったやつがいたということで問題になるけど、持って帰られなければ、変な奴がいたという程度でスルーするかも知れないと判断したのかも知れない。そいつの行動派愚かに見えるが、その瞬間主幹の癌弾力に長けている人間の行動だと忌めるのではないだろうか?」
と浅川刑事が言った。
「その絵にどんな秘密が?」
「それはその絵を欲しがる人に訊かないと分からない。ただ、本当に絵を手に入れたいだけで、本当の犯人が殺人まで命令したかですよね。実行犯は、本当はやつに恨みを抱いていて、自分はあくまで実行犯、そして黒幕がすべてを計画したと思わせると考えれば、この殺人も、本当の動機と、犯行を計画した人間の考えの違いが分かるというものですよね。そこで逆さ絵というものの歴史を考えてみれば。何かが分かってくるのではないかと思うんです」
「逆さ絵の歴史?」