逆さ絵の真実
当然絵の完成に影響を与えることはない。このまま最後までこの緊張を保ち続ければいいことであった。
八割がたできたところで時計を見ると、まだ半分の時間しかかかっていなかった。さすがに八割できていると、ほぼ完成と言ってもいいだろう。
逆さ絵の世界では、八割できていると考えると、残りは本当に二割だった。芸術を奏でていると、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
という言葉のように、完成部分と未完成部分を足して百パーセントにならないということはなかった。
他の絵を描いている時は、今の百里のたとえになぞらえて考えることもできるのだが、逆さ絵というのは、どこまでもリアルであり、感覚に逆らうことはなかったのだ。
だが、これもあくまでも自己の考えであり、彼の中では、
――だから、逆さ絵というのは、これほど自由な画風というのはないんだ――
と感じたものだった。
リアルであり、計算が立つということは、余計なことを考える必要などないということであり、それだけ完成度も高いと言えるだろう。
八割の時点で、また羽村の作品を見てみると、そこには描かれているはずの半分も描かれていなかった。それでも、最初の出だしを思えばよく描けたと思うほどで、彼の様子を見ると、集中しているように見えた。
それでも筆の方はしっかりと進んでいて、相変わらず、正面の光景と、スマホの映像を見比べている。その二つに何があるというのか、
――違いがあるのを探しているのか、それとも同じ場所だけを切り抜いて描いているのか、後ろから見ているだけではよく分からないな――
と思っていた。
だがそれは当たり前のことであり、準之助が師匠の描き方を後ろから見ていて感じるようになったのは、弟子入りしてからかなり経ってのことだった。
あれからだいぶ時間も経っていて、自分が何かの悟りを開き、自分の作風を開花させたという自負を持っているだけに、今であれば、その日のうちにでも、相手の技法が分かるのではないかと思えるほどになっていると思っていた。
絵がどんどんできあがっていくのが分かると、自分もいくら残り時間があるとはいえ、完成しなければゼロと同じだということが分かっているだけに、また集中しなおした。
この時に何がマヒしていくのか、一抹の不安は残ったが、怖いという感覚はなかった。――私は、すでに一つの分野において、道を究めた人間なのだから――
という思いが強いからであった。
次にマヒした感覚は、バランス感覚だった。これは例えば空と陸の感覚がマヒしたというべきであるが、八割がた完成していると、もう、それは関係ない。
そもそも、逆さ絵にとって一番難しいところは、水平線や地平線の感覚であった。上下対象の絵を描こうとするのが難しいのは、そのバランス感覚があるからで、実際に上下の逆さ絵というのは難しかった。
羽村の失踪
準之助が極めた逆さ絵はあくまでも左右対称であり、上下の逆さを描くことは早い段階で無理だと思った。
「右脳を左脳に転換する必要がある」
ということが分かっているからだ。
絵画の練習をする分には、エクササイズとしては十分なものなのだが、絵を極める段階でこのエクササイズはまったく不要なことであった。
「上下逆さだとまったく違う感覚に陥る」
というのは、以前言われていいたサッチャー錯視というものに由来しているという考えがあった。
これは、
「上下逆さの倒立顔において、局所的特徴を検出するのが困難だ」
と言われる発想からきている。
つまりは、感覚がマヒしているということである。
二度目の集中において、マヒしてしまった感覚はここにもあった。つまり、
「バランス感覚がマヒすると、サッチャー錯視を起こしやすい」
とも言えるのではないだろうか。
この発想は、昔からあったわけではない。発想としてはあったのかも知れないが、言われ始めたのは、イギリスの首相がマーガレット・サッチャーになった後であろうから、今から古くとも、今から四十年くらい前のことである。
そういう意味でいけば、師匠が逆さ絵を描き始めた時期とそれほど違っているわけではない。何か通じるものがあったのかも知れない。
つまり、サッチャー錯視というのは、まだ研究段階で、ハッキリとした感覚はなかったものだ。だから、師匠もハッキリと断言できたわけではない。それを思うと、逆さ絵というものの歴史は、サッチャー錯視の歴史ともいえるだろう。ただ、実際の逆さ絵というのは、上下反転ではなく、左右反転のものだ。まだ上下反転の技法までは、今の人間では解釈できるところまでは言っていないのか、それともそこには歴然とした壁があって。人間にはできない何かの能力が必要なのか、難しいところであった。
sれでも、絵の方は順調に完成していく。
「よし、できた」
と自分で完成品を見つめてから、再度頭の中に描いた二次元の世界と見比べて、遜色なければそれでよかった。
その時にも、完璧と言える作品ができがったことで、ホッと緊張を切った準之助だったが。これもいつものことであった。
今度こそ完全に余裕を持った気持ちで羽村の絵を見ると、羽村の方もかなり出来上がっていた。
だが、その完成度は想像以上のものであった。
――何だ、あれは?
と感じたのは、ここからかなりの距離があり、かろうじて絵が確認できる程度なのに、その立体感が浮かび上がってくるのを感じた。
――ひょっとすると、その感覚は、距離があるから分かるものであって、実際に近くで見るとそうでもないのかも知れない――
と感じたが、どうやら、その考えは半分当たっているようだった。
ただ、彼の作品をその時見て、一抹の不安に駆られたのは事実だった。
――まさか、負けることはないとは思うが、彼の作風を認めないわけにはいかないだろうな――
というところまでは感じるようになっていたのだ。
二人とも、タイムリミットまでには少し時間があった。そして、準之助には、もうその場に居座っているだけの理由もなく、今までもそうなのだが、作品を描き終えると、すぐにその場から去ることにしている。他の作家がどうなのか分からないが、いくら見直しても、修正できるわけではない。いく鉛筆であっても、部分的には描きなおせるが、いまさら出来上がった作品に手を加えることは、ほぼ無理だったのだ。
それは準之助にしても、挑戦者の羽村にしても同じだっただろう。そこにいる羽村は、普段からのチャラい雰囲気は一切なく、完全に芸術家が、真摯に芸術に向き合っている姿に相違ない。それを感じると、
――見かけだけで判断してしまって、悪いことをしたな――
と感じたのだ。
作品が出来上がると、いよいよ、審査が始まった。審査委員は別室で、きっと、ああでもない、こうでもないと審査をしていることだろう。待っている方は気が気ではない。
だが、準之助は、意外と気楽な気がした。実際に今回勝負してみて感じたのは、
――今のところ逆さ絵が注目を受けているけど、そろそろ別の何かを考えてもいい時期なのではないか?
と感じるようになってきた。