逆さ絵の真実
と言われ、準之助はそそくさと会場を後にし、表に向かった。コンサートホールのようなところだったので、まわりが公園のようになっているので、被写体はいくらでもあった。
ゆっくり物色していると、羽村も表に出てきた。羽村もさすがに製作に入ると、まわりに人を寄せ付けないようで、
――一応、芸術家としての心構えはあるんだな。それでなくては、あまりにも歯ごたえがなくて面白くない――
と感じた。
意識しないように、いつもの感覚で公園の端のベンチに腰を下ろす炉、いつものように、まず目を瞑って、目の前の光景を一度打ち消した。そして再度目を開けて、今度はその光景をしっかりと焼き付ける感覚で見たのだ。そしてまた目を瞑って、今度は瞼の裏に先ほど見た景色を植え付ける。今度は結構長く目を瞑っていたのだ。一分以上は目を瞑っていただろうか。いつものように微動だにしない様子から、目を開けると、そこには、逆さ絵に見える要素がすでに出来上がっていた。
――いつものように、見えている光景をそのままスケッチブックに描き出せば、それでいいんだ――
と感じていた。
羽村はそんな準之助の様子を黙って見ていたようだ。
準之助の見ている世界には、遠近感も空と地平のバランスも、まったくなかった。ただ、見えているのは、立体感ではなく、すでに二次元の世界で、絵画になっている情景だったのだ。
その情景を、少しずつ写生していく。どこから写生すればいいのか、それはその時々で違っていて、本当は同じ場所から描くべきなのだろう。それはその人の個性であるから。しかし、逆さ絵に関しては、師匠もそうであったが、描き始める位置は一定していないのが定説だと思っていた。だからこその逆さ絵であり、どんな手法を用いようとも、そこは変わらないと思っていた。
実際に、準之助は勝野先生から、逆さ絵の講習を受けたわけではない。
「逆さ絵というものは、その人の個性で描くものなので、教えることはできないが、結局は捉えどころは一緒なのだということを意識してほしい」
と言っていた。
最初は何を言っているのか分からなかったが、後から考えると分かることは多いもので、実際に、今弟子を持つようになると、その時の先生の気持ちも、弟子を持ちたくないという気持ちも分かるような気がしているのだ。
普通の絵画を描く時は、最初に落とした筆から、なかなか進まないことが多かったが、逆さ絵を描く時は、最初に筆を落とすと、そこからある程度までに一気に描かなければならない。それは筆を落とした瞬間にハッキリと見える光景を忘れないうちに描かなければいけないという発想であった。
実際に描き始めると、まわりが気にならないのだが、その時は、近くに人の気配を感じた。
――何だ?
と思ってそばを見ると、自分よりも少し前で、羽村が描いているのが見えた。
彼は自分とはまったく別の描き方をしている。
――えっ? あんなやり方で描くことなんかできるのか?
と思うような不思議な書き方だったが、そもそも、逆さ絵というのは、そういうものであり、描き方に定義などない。
その人がオリジナルで考えたやり方が正となるのだった。
彼がどのようなやり方をしているかというと、スマホを使って、まずその被写体を撮影していた。
それは、自撮り棒と呼ばれるものを使って撮影するものなので、自然と逆さになるのだ。
彼は、そのスマホに映った絵と、実際に目の前に見えているものの両方を見比べながら描いていたのだ。
――なるほど、理屈からすれば、この描き方にも一理ある。いや、一番理に適っている描き方なのかも知れない――
と感じたほどだった。
正直、感銘したと言ってもいいかも知れない。彼の描き方は、いくつもある自由な発想を超越している気がした。
今まで彼のことを、甘く見ていて、芸術家として、舐められているとまで思っていた頭を変えなければいけないと思った。
彼が描いているやり方は、最初に筆を落とす場所は、彼の場合も結構早く決まったようだ。だが、そこからがなかなか進まない。ここは自分が考えてきた、逆さ絵の描き方とは明らかに違っていたのだ。
あくまでも、一つを掻く場合でも、実際の光景と、スマホの画像を見比べている。見えているのは、きっと一点に集中して見ているのだろう。
そう思い、また自分のスケッチブックに目を戻すと、そこには、だいぶ出来上がっている逆さ絵が描かれていた。
そして、再度目を瞑って、逆さ絵を描くための情景を写し出すことを行う。描き終わるまでは何度でも再生可能なやり方だった。
瞼の裏に浮き上がる二次元の光景は、最初に比べて、少し小さく、遠いところから見ている感覚に陥る。全体を見渡すにはいいのだが、細部に関しては、最初ほど鮮明に見ることはできない。それはそれでいいのだが、見ていると、疲れが倍増してくることで、その時々で、何かの感覚は一つずつマヒしてくるような気がした。絵を描くのに必要なことがマヒしてくるので、あまり何度も集中しなおすことはしない方がいいというのは、準之助の考えだった。
だから、いつもであれば、一気に描いてしまう。今回のように短い時間であっても、別ウニ気にならないのだ。
だが、彼のあの描き方だと、決まっているこの時間でどうやって描き上げるというのか。やれるものならやってみろと言いたいくらいであった。
出来上がった絵を見たことがあったが、その素晴らしさはなかなかのものだった。
だが、自分たちの描いてきた逆さ絵とは基本的に違うものなので、自分では比較にならない。ある意味、専門家にも難しい判断かも知れないが、彼らとて、今までの逆さ絵というものを見てきたはずである。したがって、選ぶのは伝統的な自分たちだと考えてしかるべきであろう。
そう思った準之助は、負ける気がしなかったのである。
自分のことに集中して描いていると、いつもよりも早く作品が完成できるような気がした。その分、精神的に余裕がでてきた。精神的な余裕というのがどれほど大切なのかということは、前々から分かっていることだった。
「余裕があるからこそ、筆が進むのだし、早く描けているということは、迷いもなく、集中できているということなので、そこに負の要素が入り込むはずはない。このまま集中さえできていれば、おのずと最高に近い作品ができると自負していた。
自画自賛したくなるほどの作品が目の前のスケッチブックに描かれていく。実は、一度集中を切ったことでマヒしてしまった感覚というのは、
「時間の感覚」
だったのだ。
本来であれば、作家にとって、時間の感覚がマヒするということはあまりいいことではない。しかし、準之助に限っては違っていた。時間の感覚がマヒするということは、それだけ早く時間が経過するということであり、普通に描いていると、完成が早いと思うのも無理もないことだ。
最初はその感覚がないので、それが余裕に繋がってくる。一度身についた感覚は、作品が完成するまで消えることはない。だから、時間の感覚がマヒしたということを分かっても、一度走り出した感覚を狂わすものではなかった。