奴隷とプライドの捻じれ
「人間には決して火を与えてはいけない」
という禁があったのだが、人間界の苦難を見るに見かねて、プロテウスは人間界に火を与えてしまう。
それによって、人間は争いなどを引き起こすようになり、ゼウスのいう通りになってしまった。
プロメテウスと人間に罰を与えなければいけないと、神は人間界に、初めてのオンナである、
「パンドーラ」
を創造し、遣わした。
プロメテウスの弟にパンドーラを与えたが、彼女は、神々から女性としての必要なことをすべて仕込まれて人間界に来た。
その時一緒に、匣(壺のようなものというものという説もある)を持参していて、
「決して開けてはいけない」
と言われていたのに、好奇心に負けて開けてしまったことで、そこからあらゆる災いが噴き出した。
底に残ったものが希望だという説もあるが、とにかく、開けてはいけないというものを開けてしまうという、これはギリシャ神話に限らず、日本のおとぎ話にもよく出てくるシチュエーションだが、この時の山内は、まさに、
「パンドラの匣」
と言ってもよかったのではないだろうか。
いいものだと思っていると、これほど扱いにくくて。捨てること、つまりは開けることのできないものだということである。
由香は、この温泉宿を、まさか、
「姥捨て山」
にでもしようというのか、そんなことを考えた自分が怖く感じられた。
だが、この宿での山内の態度、これまで知っている彼にはありえないような雰囲気だった。
まるで良識のある大人という雰囲気を醸し出していて、ここに来るまでとはまったく違った佇まい、
――これが本当に、あの山内という男なのかしら?
と思えるほどだった。
何事にも怯えが先に走ってしまい、不安と憔悴だけが心の中にあるため、前を向くことができず、ちょっとした風でも、すぐに倒れてしまう自分しか想像できない状態であった。
山内は、ここに来るまで、由香のことをパンドラのように感じていた。一緒にいないと不安なのに、一緒にいても、自分が何をすればいいのか分からない。前にも後ろにも進めず、まるで底なしの谷の上に掛かった吊り橋の中央で、途方に暮れてしまったかのようだった。
恋愛と奴隷
二人は別に不倫をしているわけでもなければ、罪を犯したわけでもないのに、何か遠慮がちだった。二人はその日の食事を終わって、再度露天風呂に行った。ただし、この時は男だけで、由香の方は部屋で休んでいた。
露天風呂は、もう真っ暗になっていて、行灯のような黄色い明かりが、妖艶さを写し出していた。それを見た時、封建時代の温泉を感じさせられた。
――封建時代――
それは自分にとっても、由香にとっても、馴染みの深い思いだった。由香の中では、それを異常性癖だと思っているが、異常性癖であることに変わりはないが、それ以外の感覚として、山内に中にある「奴隷」という主従関係が意識の中にあるのを感じていた。
湯に浸かると、一度浸かった湯なので、身体が慣れているのか、最初に感じた痛みはなくなっていた。
痛みがないというよりも、身体の芯自体が暖かいことで、次第に、お湯の部分と自分の身体の間に境目がなくなっていくような気がするのだった。目の前に浮かび上がっていく湯気を見ていると、白い線だと思っていたものが、粒子の塊りであるという、理屈を理解するかのような感覚に染まってくるのを感じたのだ。
入ってすぐは感じなかったが、身体が湯に馴染んできたのを感じた時、目の前の湯気の向こうに、誰かがいるのを感じた。
それが女性であることは、髪を後ろで結んでいることで分かったのだが、一瞬、
「悪い」
という思いを感じた。
その悪さというのは、目の前の彼女が一人で入っていたのを邪魔したという気持ちなのか、それとも、由香に対して、他意があったわけではないのに、一緒になってしまった偶然に対して、まるで自分の欲望が作り上げた妄想の世界を実現してしまったかのようで、申し訳ないという気持ちだったのか、自分でもよく分からなかった。
山内が彼女の存在に気付いたその時、それまでまったく動いていなかった彼女が動きを見せた。
「ジャブ」
という音とともにタオルを湯から出して、顔を拭いている様子を感じたが。
――ということは、私に気を遣って、音を立てないうようにしてくれていたのかな?
と思ったが、さすがに、ずっとじっとしているのは苦しいのだろう。
「こんばんは」
という籠ったような声が湯気を揺らしながら聞こえてきた。
「あ、こんばんは」
と、完全につられるように答えたが、まるでうろたえているかのように聞こえたのか、それが滑稽に見えたようで、彼女は、クスっと笑ったようだ。
「こちらには、今日お見えになられたんですか?」
と彼女は聴いてきた。
最初に聴いた声ほど籠っておらず、透き通ったような甲高い声に、少し少女のような雰囲気を感じた。顔はまだ湯気の向こうにあり、確認することはできなかったが、後ろで結んでいる髪の毛から想像する雰囲気は、まだ二十代そこそこに思えて仕方がなかった。
「ええ、今日来たんですよ。初めてなんですが、なかなか情緒のあるところですよね」
と山内がいうと、
「ええ、そうなんですよ。でも、お客さんは年寄りが多いので、若い方が来られると、嬉しく感じますね」
と彼女は言った。
「あなたは、ここの常連なんですか?」
と山内が聞くと、
「ええ、そうです。ただ、私も湯治が目的といえばそうなんですよね。実はちょっとした病気があって、まあ、気休めにしかならないんですが、ほとんど気分転換という感じでここにお邪魔している感じですね」
と彼女は言った。
「病気って?」
と訊いてみたが、
「精神的な病気で、鬱病のような症状だったり、記憶喪失のような感じだったんですけど、最近はこの温泉の効用なのか、あまりひどくはないようなんですよ」
と彼女は言った。
「それはよかったですね。この温泉には、精神的なものを癒してくれる効用もあるんですね?」
「ええ、だから、ストレスが溜まって精神的な疲れのある人だとか、ジレンマやトラウマを感じている人なんか、ここに来ればいいと思うんだけど、なかなか皆さん、そういうわけにはいなかいようですね。それだけ世の中が止まらずに動いているということなんでしょうね」
と彼女は言った。
「記憶喪失って、どんな感じなんですか」
と興味があったので聞いてみた。
「記憶喪失というのは、かなり個人差があるようですね、総称して記憶喪失と言っているようですけど、その度合いであったり、種類にもいろいろあるようですよ。例えば、夢を見ているような感覚であったり、それに対して、目が覚めても覚めない夢が、失った記憶であったりすると思えるようなものもありました」
と言われて。山内は、
――ちょっと難しい言い回しをする女の子だな。でも、どこか分かる気がするな――
と思った。
しかも、その思いを感じるのは、
「自分だから」
という思いが強かった。
他の人であれば、こんなことは感じないという思いが強かったと言えるのではないだろうか。
作品名:奴隷とプライドの捻じれ 作家名:森本晃次