奴隷とプライドの捻じれ
「でも、記憶を失っている時というのは、普段の自分も意識できていると思うんです。記憶を失っている自分と、記憶を失わないでいる自分の両方が、頭の中に共存しているという感じなのかしら? これは夢を見ている時と似ていると思うんだけど、夢を見ている時って、夢を見ている自分と、夢の中の主人公である自分の二人の存在を感じることがあるんです。だから記憶喪失状態の自分を、夢の中にいるような感じがすると言えるんじゃないかと思うんですが。この思いが記憶喪失の間に、よみがえってくるんです。だから、ひょっとすると、記憶喪失の時の自分が本当の自分なんじゃないかと思うこともあるんです」
「ということは、夢の中の自分を、本当の自分だと思ったことがあるということですか?」
「ええ、子供の頃は正直そう思っていました。そう感じるようになってからか。次第に記憶があいまいな時が少しずつ増えていったんです。子供だったので、ここまで理論的な考えが浮かんでくるはずもなく、漠然と思っていただけなんですけど、今はそう思うことをむしろ安心感につながると感じるようになったんです。そういう意味では記憶喪失気味ではありましたけど、まわりが心配するほど私は気にしていなかったというのが、真実ですね」
というではないか。
山内にも何となく気持ちが分かる気がした。
自分は子供の頃から、主従関係や奴隷扱いをされることで、
「これが自分の生き方なんだ」
と思うようになってはいたが、運命として受け入れるという感覚ではなかった。
むしろ、今がそういう状態だというだけで、大人になるにつれて、立場が逆転することがあると思っていた。
確かに、今の関係のまま、お互いに進めば、波風が立つこともなく、無難に平和な関係のままであるからである。
子供時代には、いろいろな可能性があるが、その間に培われた性格は決してその後変わることはないだろう。二十年近くも成長期に培われたものである。それが簡単に変わってしまうようであれば、この二十年間というものが何であったのか、疑問でしかないからである。
ただ、今ここで彼女と話をしていて、夢の世界と記憶の世界とは、切っても切り離せないものであるということを思い知らされたような気がした。
そして、今風呂の中に一緒にはいるが、なかなか湯気のために確認できない彼女の顔を想像していると、成長期に感じた「耽美」というイメージを思い出していた。
「美しいものを愛でるということは、何にもまして大切なことである」
という考え方である。
自分が村山によって追及された美を、自分の肉や血を持って美として形作っている。自分だけで作り上げる美ではないことに、全面的な悦びはないのだが、身体全体でもって、追及できていることには悦びを感じていた。
だから、奴隷のような目にあっても、村上から離れることができず、それを悪いことだとは思わないのだった。
「私ね、時々この温泉に浸かっていると、湯気の向こうに鎧武者が立っているのが見えることがあるの。湯気に隠れているので、シルエットしか分からないんだけど、その勇ましさは素晴らしくて頼もしいと思うのね」
「そういえば、ここには落ち武者の滝があるって聞いたわ」
というと、
「ええ、そうなのよ、彼らは確かに落ち武者だったんだけど、一度は落ち着いて、ここから旅立とうとしていたところを追手に追いつかれたということなんですが、それも考え方ではないでしょうか。この温泉地は、地元の人にしか分からないところで、よそ者は厳格に区別されていた場所だという伝説ですので、彼らは、本当はここに骨を埋めなければいけなかった。無理もないことではありますが、故郷恋しさが募ってきたことで彼らは滝の怒りを買ったんでしょうね。それで、せっかく守られていたものが、急に守るものがなくなって。後は惨殺されて。それこそ、運命には逆らえないということになったんでしょうね」
と彼女は言った。
「じゃあ、この音声に関わった人は、この温泉に骨を埋めるつもりでないと、最後にはどうなるか分からないということなのかな?」
というと、
「そうじゃなくて、あくまでも落ち武者は、この村で惨殺される運命だったということなんでしょうね、本当はこの場所を見つけなければ、最初に逃げた時にどこかで殺される運命だった。でも、この場所を見つけたおかげで命拾いをして、その命拾いをした時の気持ちを忘れて、故郷を恋しくなって、帰ろうとした。そのために、元々の運命が彼らを待っていたというだけのことなんじゃないかしら?」
と彼女は言った。
「だけのこと……?」
と山内は訝しがったが、
「ええ、それも運命というもの。普段から人間は誰かに守られているという意識を忘れると、そのご加護がなくなるということを、本当は皆思い知らなければいけないということなんじゃないかしら?」
と彼女は言った。
「君もそうなのかい?」
と山内がいうと、
「ええ、そうよ。私はここから出られない。でも、この場所が一番いいの。逆に他の場所に行くのが怖いくらいよ」
「それは、ご加護がなくなるから?」
「ええ、ご加護のない世界で生きていく勇気はないわ。それを一番府ご存じなのは、山内さん、あなたなんじゃなくって?」
と言われて、ビックリした。
ここでは。柏木徹と名乗っているので、誰も自分が山内だと知っている人はいないはずだ。一体どういうことなのだろうか?
「どうして、僕の名前を知っているんだい?」
と聞くと、
「あなたは覚えていないかも知れないけど、私はあなたの小学生の頃のクラスメイトだった鳳麗子よ」
というではないか。
「確か、お金持ちのお嬢さんで、美しいものを愛することをすべてのように思い、僕という男に奴隷として興味を持ち、最後には、こんp僕を見限った、鳳麗子さんですね?」
と言ったことで、今度は麗子がビックリしたようだ。
この瞬間、二人を遮っていた湯気は消え、遮るものがなくなり、二人は正対した。
「お久しぶりね」
と麗子が嘯いたように呟くと、
「ああ、そうだね。何年振りだろうか?」
と山内がいうと、二人の間に少し沈黙が走った。
表情はお互いににこやかであったが、気持ちは表情とは違っていた。
本当は、何もかも分かっていてここに現れたことで、山内に恐怖を植え付けてやろうと考えていた麗子だったが、山内の方がそれ以上に麗子のことを覚えていて、そのことを一番怖がっているのは、実は覚えていた本人である山内だということを、二人の表情から読み取ることができる人などいないだろう。
「君は、僕を見限ったんじゃなかったのかい?」
と山内がいうと、
作品名:奴隷とプライドの捻じれ 作家名:森本晃次