奴隷とプライドの捻じれ
そして、ここはさすが近くに酒蔵があるからか、ビールではなく、日本酒が用意されていた。二人とも、実はビールよりも日本酒派なので、実にありがたいことであり、部屋には鍋料理のおかげか、甘くお肉の沁み込んだ重厚な香りが漂っていた。
湯気はさっきの温泉を思い出させるのも嬉しい限りで、
「やっぱり、冬というと、お鍋に熱燗ですよね」
と言って、並べられた食卓を見て、大満足の女性であった。
「奥さんは、大変お気に入りになられたようですね?」
と言われて、女性は一瞬、ハッとしたが、すぐに顔を元に戻して、ニッコリ微笑んだことがその答えであった。
――気付かれてはいないな――
と一瞬怪訝な顔になったことを気付かれていないことに安堵した彼女は、すぐに、食事に再度目を向けたのだった、
男性はというと、相変わらずの不愛想さで、無表情のままだったが、仲居さんも無視することで、問題ないと思ったのだ。
この二人のカップルは、予約を入れたのは女性だった。
三日ほど前に、
「三日後に、男女二人での宿泊なんですが、大丈夫でしょうか?」
と言ってかかってきた。
「ええ、大丈夫ですよ。うちは初めてでしょうか?」
「はい、旅行雑誌に載っていたのを見て興味を持ちました」
と女が言ったが、普通は旅行雑誌などには載らないところではあったが、一社か二社ほど、
「秘境の温泉」
というコラムのコーナーにちょいと紹介されたことがあったが、それを見てのことであろう。
「お名前は?」
と訊ねられて、
「柏木徹と、柏木由香の夫婦です」
と相手は名乗った。
会話には別におかしな点はなく、ただ、普通なら予約は会社でもない限り男性が入れてくるのが多いのに、そこが不思議な気がした。
実際に会ってみると、電話の声は結構高かったように思えたが、会って話すと落ち着いた声なのでビックリした。そのおかげか、年齢の想像がつかなかった。宿泊者カードを見ればいくつなのか分かるだろうが、見た感じでは、三十代前半くらいではないだろうか。
仲居さんが見る限りでは、新婚にしては落ち着きすぎているので、結婚から最低三年くらいは経っているのではないかと思えた。そう思うと、三十代前半という推理は妥当ではないかと思えたのだ。
それにしても、こんな辺鄙な宿に、宿泊予定が、三泊四日ということであった。湯治や芸術家のような仕事目的でもない限り、三泊四日もする必要がどこにあるというのか、普通だったら、二泊までがいいところだと思えた。
仲居さんが見る限り、このカップルは、少し怪しさを秘めているような気がした。
――本当に夫婦なんだろうか?
という思いである。
――不倫の清算にでも来たのかしら?
と、まるで昭和のイメージで考えてしまったが、この宿はその昭和のイメージをそのまま醸し出しているだけに、ここで心中事件などがあったとしても、不思議な感じはしなかった。
だが、さすがに心中に昔ながらの温泉宿を使うという話を訊いたことはほとんどないので、非現実的な想像だと感じたのだった。
先ほどの佐山霊山先生ではないが、それこそ昔の文豪が、奥さんとの心中を温泉旅館で試みたなどという話をいくらも聞いたことがあった。そのイメージがあるからではないだろうか。
仲居さんが、この宿では、ほとんどが湯治客か、作家先生などのような常連客ばかりなので、今まで変な心配をしたことはなかったが、カップルが数日間の滞在とのなると、やはり気を付ける必要はあるのかと思っていた。
そういう意味もあってか、女将さんと相談して、夕食を部屋での鍋にしたのだった。仲居さんがついてのお給仕なので、その時に感じることも多々あるだろうということだった。そのおかげで、意外と心配には及ばないと思えてきたのはよかった気がする。ただ、奥さんは気さくなのは分かったが、旦那の方はほとんど喋ろうともせず、どこか気配を消そうとしているのが分かったほどだ。
――もし、これが最初から私のように気にかけていなかったら、あの旦那さんは、気配を消せていたかも知れないわ――
と、旦那には、自分の気配を消すことができるという、特殊能力のようなものを持ち合わせているという気がしたのだ。
「ところで、お客さんはこういう温泉宿が好きなんですか?」
と訊かれて、
「ええ、私たち、新婚旅行も海外に行ったりせず、国内の温泉巡りをするのが新婚旅行だったんです。私もこの人も、海外ツアーの新婚旅行のような型に嵌ったことは大嫌いなので、新婚旅行の時も、二人で観光ブックなどを何冊も見ながら、パソコンでも検索したりして、いろいろ計画したものです。二人とも、自分で計画するのが好きなんですよ」
と奥さんが言った。
旦那は相変わらず無表情だが、この話の時だけは、何度も頭を下げて頷いていた。
「それは、よかったですよね。うちの旅館は、ほとんどが常連さんばかりなので、たまにこうやって訪れてこられるお客さんも大歓迎なんですよ。あくまでも、『秘境の温泉宿』としてがありがたいんですよ。人が増えれば、いろいろな人がおれれる。せっかく隠れ家としてここを利用していただいているお客さんにも迷惑が掛かるのだけは、困りますからね」
と言った。
温泉宿の客
「ちなみにお客様は、この宿の前の狭い山道を少し入ったところに滝がありますのをご存じでしょうか?」
と仲居さんに聞かれて、
「ええ、知っていますよ。実は私たち、その滝を見たいと思ってこちらに宿泊しているんです」
というではないか。
仲居さんは、意外な気がして、意表を突かれた気がしたが、
「ああ、そうでしたか、あの滝には昔からの謂れもあるんですよ」
というと、
「それも、聞きました。何やら落ち武者伝説があるとか?」
と由香がいうと、
「ええ、よくご存じですね?」
「ええ、佐山先生に伺いました」
というと、仲居さんは納得したように。
「そうですか。それはよかった。佐山先生にお会いになられたんですね?」
という仲居さんだったが、さらに仲居さんが言った、
「よかった」
という言葉は、話が訊けたからよかったということなのか、それとも、佐山先生に会うことができたのがよかったということなのか、由香は考えてしまった。
「佐山先生は、よくここにご滞在なんですよ。何でも、ここに来ると、いろいろな発想が浮かぶとかで、この場所にいながら、都会のど真ん中にいる想像ができたり、海外にいる想像迄できるというからすごいですよね。でも、他の温泉宿では絶対にできないと言われるんですよ。ここは先生にとって、宝箱のうおうなところなのかも知れませんね」
と、仲居さんは言った。
「へえ、そうなんですか? 私は先生がこの旅館で何かの発想をする時は、この旅館のような雰囲気と昭和を織り交ぜた作品の時だけだと思っていました。実際に先生の作品に、この宿がモチーフだと思えるところも結構ありますからね。そういう意味で、先生にはここ以外にも、イメージを発散させる場所があるのだろうと思っていました」
と由香がいうと。
作品名:奴隷とプライドの捻じれ 作家名:森本晃次