小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

奴隷とプライドの捻じれ

INDEX|5ページ/29ページ|

次のページ前のページ
 

 そのせいで、一瞬このかすみのかかった湯気の中のどこから聞こえてきた声か分からなかったが、次第に目が慣れてくると、奥の方に、湯の上に黒く丸いものが浮かび上がっているのが見えた。その人が喋ったのだろう。
 今日の宿泊客のことは、さっきおしゃべりで気さくな仲居さんから聞いていたので、その人は、きっと作家先生なのだろうと察しがついた。
 声の感じからとても、老人には思えなかったからだが、それ以上に声に重みを感じた。芸術家ならではと思えたのは、奥さんの方が、以前雑誌社で、取材のアシスタントを経験したことがあったからだ。
 アルバイトで、しかも短い間ではあったが、作家の先生は、奥さんのことを気に入って、いろいろ話をしてくれた。その時に、
――作家の先生って、気難しい人が多く、変わり者ばかりなんだって思っていたけど、案外普通で、それでいて、寂しがり屋さんが多いんだわ――
 と思ったものだった。
 しかし、話の内容は結構濃いもので、喋り方もさすがに作家と思わせるほど、文学的表現に富んでいた。それを思い出すと、この作家先生にも同じような血が流れているのだと感じ、敬意を表してその声を聴いた。
「作家の先生なんですか?」
 と奥さんが聞くと、
「先生というのはおこがましいくらいだが、本は書いておるよ」
 と言っている。
「差支えなければ、お名前は?」
 と聞くと、
「筆名を佐山霊山という者だが」
 と言われた。
「佐山霊山先生ですか? あのオカルト小説を書かれている」
 と奥さんが聞くと、
「いかにも、私がその佐山霊山です」
「私、先生の作品を何冊か読んだことがあります。なかなかあの不気味さは、他の作家さんにはマネのできないものだと思って感心しました」
 と奥さんがいうと、
「それはありがとう。お褒めいただけたと思っていいのかな?」
「もちろんですよ。不気味さが文章からも感じられて、余計に想像力を掻き立てられるんです。私はあまりホラーやオカルトは苦手なんでsyが、先生の作品だけは、読めちゃうんです。やはり文章に引き込まれることで、不気味さがいい意味で読み終わった後に残るのがいいのかも知れないと思いました」
 と言って奥さんは感動していたが、実は連れの男の方は、残念ながら、読書の習慣を持ち合わせていない。
 女性の方が今までに何度かいろいろな作者の作品を紹介したが、結局読もうともしない。その中に佐山霊山の作品もあったのを女性の方が覚えているが、最初から本に興味などなかった男の方には、誰が誰だか分かっていないので、当然、佐山霊山と言われても、まったくピンとくるものではなかった。
 佐山霊山という作家は、ベストセラー作家というわけでもなく、代表作が爆発的に売れたというわけでもない。
 逆に代表作というものがあるわけではなく、数ある作品、一つ一つに魅力を感じる作家だった。
 ある意味、
「息の長い作家」
 というイメージを女性の方は持っていたのだった。
「先生の作品は、この湯と、この宿から生まれていたんでsね?」
 というと、
「いかにもそうですな。ここには、何か不気味さを感じるのだが、どこから来るのか分からない。気が付けば、その不気味さが抜けていたりするくらいで、今までに執筆のためにいくつかの逗留場を探してみたものだが、これ以上の場所はなかったんだよ」
 と言っている。
「なるほど、分かる気がします。私たちはまださっき到着したばかりなので、少しずつ同じような思いを抱けるようになれればいいと思うんですよ」
 と彼女は言った。
 それから、少しの間、彼女と佐山先生との間で小説論議があったが、一通りの会話が終わると、静寂が戻ってきた。
 すると、今度は男の方が、佐山先生に訊ねた。
「ここには、滝がある伺ったんですが、どんな滝なんですか?」
 と訊かれて、
「ああ、ここの滝ですか? ここの滝は、全国でも有数の急流の滝ではないかと思いますよ。これほど急流の場所で、奥まった限られた空間に存在しているところも珍しいので、それであまり有名ではないんでしょうね。しかも、ここは、昔から落ち武者伝説のようなものがあって、ホラー好きの人には穴場として知る人ぞ知る場所になっているようですが、実際には、それほど有名ではないですね」
 ということだった。
「落ち武者伝説ですか?」
「ええ、そうですね。戦国時代の大名が、大阪の陣で逃れて、逃げ道をこちらの方に向けたんでしょうね。落ち武者の人たちは、この滝と、この温泉の場所を知ってはいたんですが、実は昔はこの温泉場は、謎の場所とされていたようなんです。話には聞いたことはあるが、実際にどこにあるのか、地元の人でもなかなか分からないと言われた場所だったらしいんですが、そのせいか、地元の大名には人気がありましたが、他の土地からの人にはこの場所に辿り着くことも無理だったようで、いつしか、鬼門の場所と言われるようになったようです。でも、この土地を通り抜けて地元に戻ろうとした時、このあたりでほぼ食料も体力も限界だったんだそうで、でも、そんな落ち武者たちに精気を取り戻させたのがこの温泉でした。しばらく逗留して落ち着いたら、地元に帰ろうということになっていたのですが、一足追手が早く追いついたようで、落ち武者は惨殺され、温泉宿も一時期閉鎖されたらしいです。でも、少ししてから温泉宿は復活したんですが、その頃にはかつての鬼門という言葉はなくなっていました。しかし、その頃から今までにはなかった滝がいつの間にか出来上がっていて、それであの時のことを、『鬼門の滝』というようになったという謂れなんですよ」
 ということであった。
「そうなんですね。参考になりました。ありがとうございます」
 とそう言って、男は言葉少なく笑顔もないという実に愛想もくそもない対応であったが、佐山先生は、別にお構いなしといった雰囲気だった。
「では、私はこれで」
 と言って、佐山先生は湯から上がっていったが、湯気が深かったせいで、顔を確認することはできなかった。
 当然、相手にもカップルの顔を確認することもできないだろう。
 二人はそのまま少し無言で湯に浸かり、身体がポカポカと温まってきたのを確認したところで、湯から上がった。
 額から軽く汗が滲む程度で、湯から上がったが、着替えを済ませて、脱衣場から出た頃には、その汗が次第にひどくなってきて、額前部に汗が噴き出していて、少しずつ顔を伝って、下に流れ落ちていた。
「大丈夫?」
 自分も同じ状態になっているのを分かっているのか、女性の方は男性の顔を見て気遣っているようだった、
 男性の方もそこまで汗が噴き出しているという意識がないので、彼女の言葉を不思議に感じながら、
「お前こそ大丈夫なのか?」
 と訊きなおしていた。
 お互いにそれが温泉効果であるということは、最初だと分からなかったのだった。
 部屋に帰ると、仲居さんが夕食の準備を進めてくれていた。テーブルの上には料理の小鉢が所せましと並べられていて、中央部には鍋が置かれていた。