奴隷とプライドの捻じれ
一月は、正月から、七草がゆ、鏡開きに、成人式。二月は節分に昔でいえば「紀元節」と言われる、建国記念の日、一部の幸せな人間のためのバレンタインデーがある。さらに三月になると、桃の節句に、春分の日と、どれほどの行事があるというのか。
さらに、受験シーズンに卒業式と、実質的なイベントもあったりする。
これだけあれば、当然目まぐるしい日々であり、あっという間に過ぎていたと思うのも当然のことであり、年末の忙しさとは違う意味で、慌ただしさもあるのだ。
だから、本当ならついこの間の年末が、それ以降あっという間だったことで、かなり以前のことのように思われるのも仕方のないことだ。
「あれは、去年のこと」
と、数日前のことを言われても、別に違和感がないのも、仕方のないことであろう。
一組の男女がそんな鄙びた温泉宿にやってきたのは、一月が終わりかけようとする寒い日であった。
「この時期くらいから、とたんに寒さが押し寄せてきますからね。露天風呂で雪見酒なんて人も結構おられて、結構この時期は、いつもお客さんが多いんですが、今回はあまり予約のお客様はいませんので、お客様方は、ラッキーでございますよ」
と、田舎言葉に交じって、英語をかましてくるなど、ユニークな仲居さんの案内で部屋に入った二人は。黙ったままではあったが、旅の疲れからか、ぐったりしながら、のんびりしていた。女性の方は、よほど珍しいのか、まわりをキョロキョロしていたが、男性は何も言わずに、座椅子に腰かけて、ゆったりとしていた。
「温泉は二十四時間入れますので、お好きな時間に入られて結構ですよ」
と言われた。
時計を見ると、午後五時半を過ぎていた。朝から新幹線に在来線を交え、さらに最寄り駅から旅館の送迎バスで約四十分くらい揺られて、山が連なっているその中腹に位置する温泉だった。
ここの温泉は、温泉郷のように温泉街というわけではなく、旅館が一軒建っているだけの場所で、娯楽施設などまわりに一切何もなく、その利用客のほとんどは、湯治が目的だった。
ただ、近くには酒蔵で有名な街があり、そこのおいしい酒が飲めるというのもありがたく、闘病に差し支えないだけの酒は、クスリにもなるという。
「酒は百薬の長」
というではないか。
「ここの温泉は、内臓の疾患や、神経痛にも効くということで、幅広い湯治の客がおられます。特に内臓に疾患のある方たちは、常連さんになっていただいているので、その方たちがおられるおかげでうちの旅館もおかげさまで、商売ができるというものです」
という話だった。
「なるほど」
というと、
「それに、世間を離れたい方がよくここを隠れ家のようにして利用されている方もいますよ。小説家の先生であったり、画家の先生など、ここで逗留しながら、作品を完成させておられますよ。そういう意味では静かな場所での静養を兼ねたお仕事という意味で、うちをよく利用される常連さんもおられます」
と仲居さんは話してくれた。
この仲居さんは話し好きらしく、会話や退屈しのぎには事欠かない人のようで、店の看板のようになっているようだった。
さすがに寒いと言われるだけあって、夜は冷え込んできた。夕食は、ちょっとした鍋を宿が用意してくれたのは、きっと寒さを予測してのことだったのであろう。その日は、他の逗留客は二組と、この時期にしては少ないということだったので、宿側も歓迎してくれているのだろう。
その二組というのは、一組は湯治目的の老夫婦で、決まって毎年この時期に訪れるということで、もう一組は、一人での逗留で、作家先生だということだ。この作家先生は現行の依頼があれば、ここに引きこもることが多いということで、そういう意味では不規則不定期の滞在ではあるが、年間に何度も訪れてくれる上得意だということだった。
「実際には、おとといくらいまで数組のお客さんがおられて、賑やかだったんですが、今は二組になって寂しいと思っていたところへのご予約でしたので、うちといたしましても、大歓迎というところなんですよ」
と、気さくに仲居さんが話してくれた。
「今年の寒さはどうなんですか?」
と訊かれて、
「はあ、今年は例年に比べると、そこまで寒いとは思いません。でも、この時期になって、やっと本格的な冬が来たということで、いよいよ雪景色がこの温泉でも見られるということですよ」
と話してくれた。
「そういえば、この奥に滝があると伺ったのですが」
と女性の方が話した。
「ええ、よくご存じで、この宿の正面の県道を境に、山道がありまして、そこから少し歩いたところに大きな滝があるんです。『鬼門の滝』という名の滝なんですが、断崖絶壁から流れ落ちる水はかなりのもので、音もすごければ、その水圧で、近くの木々についている葉のほとんどは、下方を向いていると言われるほどですね、実際にごらんになってみるといいと思いますよ」
ということであった。
「そうですね。明日にでも行ってみようかな?」
「ええ、そうなさるといい。傘も忘れずに持っていかれるといいですよ」
と言っていた。
かなりの水圧だということなのだろう。
夕食は、午後七時からお願いしていた。まずは、到着後ゆっくりしてから、一度露天風呂に入る時間が欲しかったからだ、
「露天風呂は、この宿のロビーの奥にある階段を下っていけば、その奥にあります。混浴になっておりますので、そのあたりはG了承ください」
ということだった。
大浴場としての露天風呂の他には、部屋にも風呂がついている。他人との混浴に抵抗のある人は部屋の風呂を使えばいい。だが、せっかくなので二人はこの宿の露天風呂を利用することにした。
浴衣に着かえてから、二人は言われたとおりに、ロビーの奥の階段を、下に降りていった。ゆっくり気味の傾斜を一段意思h団踏みしめるように降りていくと、岩場のようなところを降りていき、その奥に木造の脱嬢が見えた。最近、建て替えたのか、綺麗な木目調の建物は、まだ木の香りがしてきそうなほど、綺麗な感じがしたのだ。
脱衣場は当然男女別になっていて、露天風呂で一緒になるのだった。脱衣を済ませた二人は、さすがに寒さからか、湯気でほとんど前の見えないシルエット状態の中、声を掛け合うようにして、湯船に浸かった。最初に浴びた湯は、肌を刺すほどの暑さがあり、それだけ身体の芯が冷え切ってしまっていたほどの寒さだったということを実感させられたのだ。
「うーん」
と、唸り声を挙げながら、二人は、湯船にゆっくりと身体を沈めていく。
その顔は苦痛に歪んでいるようだったが、身体が湯に慣れてくるにしたがって、苦悶の表情が次第に、快楽の表情に変わってきたのだ。
「やっぱり、露天風呂は溜まらないわね」
と女性がいうと、
「ああ、そうだな」
と男の方がそっけなく答えた。
女性は露天風呂の満足さを気持ちに込めて感じていたようだが、男の方ではどう感じているのか分からなかった。それがこの男性の普段からの性格なのかどうかは、この場面しか知らない人には分からなかっただろう。
「ここの湯は、子宝にも恵まれるというからな」
という低い渋い声が籠り切った湯気を刺すようにまわりに響いていた。
作品名:奴隷とプライドの捻じれ 作家名:森本晃次