奴隷とプライドの捻じれ
少なくとも、まわりは分かっていなかった山内と村山の間にある奴隷関係を簡単に看破できるのは、麗子の他に誰もいないに違いない。
そんな麗子は、山内に近づくことにした。
今まで学校でほとんど誰ともかかわりを持ってこなかった麗子だったが、そんな麗子に近づく輩や、麗子が近づこうとする輩に対して、彼女に媚びを売ってきた連中は敏感だった。
こともあろうに、こちらも学校では存在を消しているかのような山内に靡くなど、考えられないことだった。
ちなみに、山内が存在を消す術を身に着けたのは、主である村山を見ていて、自然と身につけた技だった。村かもの持っているものを吸収し、実践できるだけの力は、虐げられた人生を送っている山内の唯一の能力だといってもいいだろう。
そんな山内に麗子が靡いたのだから、麗子は、自分に媚びへつらう連中が黙ってはいないと思ったが、いつまで経っても、やつらの憤りを感じることはできなかった。
「おかしいわね」
と麗子は感じていたが、やつらとしては、無理もないことだった。
「あんな生きる気力もないようなやつに嫉妬したって、どうしようもない」
と思ったのだ。
麗子に靡かれた山内はというと、山内も主のような感じがしたのか、麗子に靡いてしまった。自分に簡単には靡いてこないはずの山内が靡いてきたことで、一気に気持ちは冷めてしまった。
「私は一体何を考えていたのだろう? あんなやつに靡こうとしたなんて」
と一気に目が覚めて、我に返った感じだった。
「こんなだから、学校なんて、面白くないんだわ」
といって、麗子は高校には入学したが、結局通わなくなり、出席日数が足りなくて、退学ということになった。
麗子に対しての情報はそこまでで、その後の麗子がどうなったのか、知っている人はいなかった。
結局麗子に置き去りにされた形の山内だったが、少しの間、一人でいたが、いつの間にかまた、村山の奴隷に戻っていた。
「これが自然な姿なんだ」
と、思っていたことだろう。
高校生までは同じ学校に進んだ二人だったが、高校卒業後は進路が別れた。
大学に進学した山内と、高校卒業後就職した村山、それぞれ、普段の生活は別々だったので、進路の違いは致し方なかった。
勉強が嫌いで、大学進学は最初から考えていなかった村山に対して、芸術を志したいということで、美術の道を高校時代から志していた山内の心の中で、まだ中学時代の麗子の面影を見ていたのかも知れない。
麗子に置き去りにされて、村山を頼って、さらなら奴隷扱いを余儀なくされた山内だったが、奴隷扱いの中でも、自分の個性を伸ばすという部分では完全な奴隷ではなかった。
奴隷扱いをするということは、確かに人間扱いをせず、人権も否定する形になるのだろうが、それには、相手を養うという最低限の条件がついてくる。それが対価となるのか、生活の全面的な補償になるのか、少なくとも同じ学生である村山にそのようなことはできるはずもなかった。
お互い学生で、社会的には同じ立場、相手を奴隷扱いするのであれば、相手の生活を保障しなければならず、そんなことはできるはがないという理屈は、二人の間にだけ存在していた。奴隷として手放したくない村山には、山内が自立できるだけの努力を支援する必要があった。
「大学に進学して、美術を身につける」
と言った彼の気持ちを尊重しなければいけない。否定することは、彼に許される選択肢ではなかった。
大学に入ってからの山内は、次第に、
「耽美主義」
にのめり込んでいく。
「昔の芸術家には、耽美主義者が多くて、中には犯罪に手を染めた人もいるように聞いている」
といっていたが、その通りだろう。
表に出てこない人も結構いて、彼にとっての耽美主義は、中学時代における麗子の耽美主義とは違ったものだったのだろうか?
芸術が気になるようになったのは、奴隷として自分を意識するようになったからなのかも知れない。
奴隷が嫌というわけではない。自尊心や、虚栄心さえなくせば、自分が奴隷であるということを妨げる気持ちはない。そもそも、自尊心も虚栄心も、生きていくために、他のことに自信が持てないことから感じるものではないかと思うことで、生きてさえいければ、必要のないものだという思いが、山内にはあった。
本当はそこに欲が生まれたりしてこそ、生きていきための気持ちが形成されていくはずのものなのに、山内にはそれがない。だからこそ、
「奴隷としての気持ちにふさわしい」
と言えるのではないだろうか。
そんな気持ちがないことで、
「誰かに頼らなければ生きていくことができない」
と言えるのであって、
そのためには、自分に対しての感情は不要なものだと思うようになるのではないだろうか。
そこで求めるのが、まわりに対しての感情。それが美というものに対しての執拗なまでの感情の表れ、これは、麗子や、その母親の求めている耽美主義とは明らかに違っているものである。
あの二人には、生きていくためのものは備わっていた。ハッキリとした形としては、金であったり、屋敷などの有形財産などであり、無形財産として、気持ちに余裕を持つことで、求める美というものを自らで作り出すという感情であった。
しかし、山内の場合は、生きているというだけで、今後の保証も生きていける根拠もないので、毎日を不安に過ごしながらも、自らを奴隷に貶めて、今後を保証してもらえるようにとの感情から生まれた、
「耽美主義」
ではないだろうか。
つまりは、自らの奴隷としての自分だからこその追求する美が、誰にも知られないところで人知れずに咲いているとされる、
「美しい花」
のようなものではないかと思えてならなかったのだ。
だから、まわりの人が奴隷のような姿を惨めだとして、目を背けることに疑問を感じ。同じ生きていくために、皆同じように必死になっているその一つの手段なのだと認めないのか、それが分からないのであった。
秘境の温泉宿
寂れた温泉宿に、若い男女が二人で宿泊というと、浮世の隠れての不倫旅行というのが相場であった時代は今は昔、今では馴染みの湯治客がやってくるくらいの、そんな寂しい温泉宿。
この間までは世間では、年末の繁忙期ということで、都会ではいやというほど、クリスマスソングが流れ、大きな駅や公園などでは、イルミネーションが綺麗であった。
年が明けてしまうと、都会は閑散としてしまったかのように、あれだけ年末に集まった人がどこに行ってしまったのかと思うほどの変わりようである。
「行く、逃げる、去る」
というように、年始から三月までをそう称して、月日の流れの早さを揶揄しているのは、実際に感じていると、無理もない状況に思えた。
特に二月などは、年間で数日少ないという唯一の月であり、気が付けば終わっているくらいである。
さらに、この時期、意外とイベントが多かったりする。
作品名:奴隷とプライドの捻じれ 作家名:森本晃次