奴隷とプライドの捻じれ
と感じたのだ。
そんな状況を小学生の頃に味わってから、それ以降は大人になるまで、ずっと二人の主従関係に変わりはなかった。
思春期になっても、主従関係ではあったが、決して村山は、理不尽なことはしなかった。却って、
「従者に気を遣うのは、主者としての務めのようなもの」
とまで思えていて、お互いの中で暗黙の了解がたくさん発生していることで、主従関係が成り立っていた。
「主従関係というのは、中世における封建制度のようなもので、主側も、従側もそれぞれに見返りがあり、それを見返りとして意識させないことが、お互いの関係の均衡を保っているのだろう」
と思われた。
すべてを主の利益にしてしまうと、それは、もうすでに主従関係ではないのだ。
思春期の時、二人にはその思いが確定した。それまでは理想として思っていたが、その意識を証明するものがなかったからだ。思春期になってその証明がされたことで、二人は揺るぎない主従関係で結ばれた。
だが、そんな公平な主従関係は長くは続かなかった。思春期のように、脆く崩れやすい精神状態にて、絶えず、お互いがすれ違いそうなバイオリズムを保っていれば、交わることがなくなってくる。そうなろと、それぞれに自分が主であり、従であるという感覚がよみがえってきて、主に主の、従には従の感情が息づいてくると、一方通行の主従関係が芽生えてくる。
それは、封建主義ではなく、奴隷制度における主従関係に近かった。
そんな感情をそれぞれに抱かせたのは、一人の女性であった。同級生である彼女は、一種の金持ちのお嬢様で、そんな彼女が最初に興味を持ったのが、山内青年だった。
学校では普通なので、村山青年との間に存在する主従関係に気づく人はそんなにいない。クラス数十人の中で、一人か二人が気付けばいい方なのに、彼女はその一人だった。
やはり、お金持ちの家に育っていると、家の中で家族全体に主という雰囲気が漂っていて、それ以外の人たちは従だという雰囲気に包まれている。子供心に、
「自分を含めた家族は主であり、それ以外の人たちは従者なのだ」
と感じていた。
彼女の名前は鳳麗子という。
名前の通り風雅さを醸し出した彼女は、豪邸に住み、家族は優雅な生活を営み、それ以外の家事と言われる普通なら母親が行うことをすべて分担で家にいる、
「召し使い」
たちが行うのだ。
父親は、いつも仕事ということで家にいない。話によると、海外を飛び回っているとも聞いていた。
母親は、屋敷の中の庭の花壇の手入れであったり、ピアノを弾いたり、読書に興じたりと、芸術的なものや、美しいものを愛でることが多い。
「私は美しいことには目がないの。それに芸術的なことであれば、さらに熱中できるわ」
といって、屋敷の中に飾られている半分近くの絵は、母親が気に入って購入したもののようだった。
父親はそんな母親を誇りに思っているということだ。
「他のご婦人には、お母さんのような芸術や美を見極める力は持ち合わせていないだろう。彼女こそ、美の神様に選ばれた女性なんだ」
と、絶賛していた。
さらに、
「麗子もそんなお母さんから生まれたのだから、美に対しての並々ならぬ感情があるはずだ。これからの成長が楽しみだよ」
と、子供の頃から言われ続けてきた。
中学生になって、麗子もその自覚が芽生えてきたのは、
「お母様にだんだん似てまいりましたわね」
と、麗子の小さい頃から、この屋敷に尽くしてくれている母親の花壇係の女性だった。
母親の花壇は、まず母親が手入れをしてから、最後の整備を召し使いが行う。その役目を担っていた女性から言われたのだ。
その言葉は思春期の麗子にとって、嬉しい言葉だった。自分もこれから成長し、美を奏で、そして、美をいつくしむことのできる大人の女性になれると確信したからだった。
その頃の麗子は、大人の女性に対して、
「美を奏で、美をいつくしむことのできる。美に愛された女性だ」
と思っていたからだ。
麗子は小学生の頃からピアノを習い、絵の先生について、油絵も勉強していた。さすがに小学生で油絵まではなかなかうまく描くことはできなかったが、鉛筆画のデッサンにはさすがと言われるほどの才能があるようで、小学生の頃の美術では、よく先生から褒められていた。
そんな美しいものを一番に感じ、美以上のものはないと考えることを、
「耽美主義」
と言われているようだが、麗子の
「美を奏で、美をいつくしむ精神」
というものは、まさに芸術における「耽美主義」と言えるのではないかと感じていた。
その精神は、母親から脈々と受け継がれ、豪邸の中でお姫様のように育った麗子には、それ以外の感情はすべて、劣等でしかなかった。
学校に行けば、まわりには自分に劣る劣等どもがうようよしている。
「学校というところは、中学校までは義務教育なので、行かなければなりません」
と教えられたので、まわりは劣等しかいないと分かっていながら、そんな連中に関わらなければいいという思いだけで学校に通っていた。
まわりも、中には露骨に媚びを売ってくる人もいるが、ほとんどは関わろうそしない。媚びを売ってくる連中は、奴隷のごとく、扱えばいいというくらいに考えていた。それでもさすがに中学生という自分も子供なだけに、相手を奴隷として扱うまでの術を知らず、持て余していると言ったところであった。
そんな麗子の目に映ってきたのは、村山に奴隷のごとく扱われる山内だった。他の人に分からない主従関係を、麗子だから感じたというのは、前述のことから至極当たり前のことであり、麗子の目には村山の存在は映っておらず、ただ奴隷のごとく虐げられている山内の姿だった。
しかし、山内には自意識がないのか、奴隷のごとくの扱いに、卑下した気持ちはなさそうだ。何を考えているのか、人間であって人間でない。自らが人権を放棄したかのようなそんな雰囲気に、麗子は全身に電流が流れたかのような衝撃を受けたのだ。
そんな彼を自分の奴隷にしようという気持ちは最初に持っていたわけではない。逆に奴隷扱いをされ、感情を表に出さない山内に対して、美を感じたのだ。
それは本当の美ではなかった。自分が学校という別世界で興味を持つ相手には、必ず何かの理屈をつけなければならないという義務感のようなものだ。だから、どこまで感じたのか分からないが、山内に対して、、
「まやかしの美」
というものを感じてしまったのだった。
美というものが、麗子の中で、
「揺るぎなく動かせない存在」
という意識があったので、彼のように、まわりに抗わない従順な状態を、
「静寂の美」
と感じたのだ。
動かないというのは、ブレないという意味であり、山内を見ている限り、何かまわりで変化があっても、決してブレることのない思いを抱き続けると思えたのだ。
それが美というものであり、
「究極の耽美主義だ」
と思えてならなあったようだ。
ここまでハッキリとした意識があったのかどうかは分からないが、普通の人間では到底感じることのできない思いを麗子は感じることができる。
作品名:奴隷とプライドの捻じれ 作家名:森本晃次